「日原」 


 そう名前を呼ばれた私が顔を上げなかったのは無視したからでなく、空耳だと思ったから。

 放課後の美術準備室。
 先生に頼まれて本の整理をしていた私。

 白っぽくよごれた窓の向こうでは、熟れたオレンジ色の夕日がじわじわ沈み始めていた。


 こんな時間に、こんな場所へ来る人なんていない。そう思ったから気にせず作業を続けたのだけど。


「……日原」


 もう一度、今度は少しいらだった声で呼ばれて、ようやくダンボールの山から顔を上げる、と。


「……」


 次の瞬間、停止する思考。

 油の匂いをふくんだ、なまぬるい空気。そろそろ夏服の生徒が増えているというのに、きっちり着込まれた上着。

 立っていたのは、


「わ……忘れ、もの?」


 黒い革鞄を持って、私を見おろしている黒崎くんだった。