ぽっちゃり天使!〜美人好きの雪森くんの様子がおかしいんです…〜

 充実した九十分のあと、莉央は当然のように、会計で千円札を二枚出した。あまりに当然のように進んでしまうので入っていく隙がなく、店員に「またお越しくださいませ」と見送られて店を出てしまった。

 そこで声をかけようとしたところで、莉央はそれを見越していたかのように振り返って、人差し指を立てて、腕を俺の口元に突き出した。

 「本、買ってくれたお礼だよ」と無邪気にほほえまれると、こちらも笑ってしまう。

 「よかったのに」

 「ううん、ずっとどうにかお礼がしたかったの」

 「本一冊よりずっと充実した時間を過ごしたよ」

 「それはよかった」と莉央はかわいらしく笑う。

 「これからどうしようか」

 「なんでもいいよ。俺んちでかわいい匂い堪能させてくれてもいいし」

 「それはだめっ!」

 「頑なだなあ……」

 「……食後の運動ってことで、お散歩でもする?」

 「うん、いいよ」

 そういえば、散歩ってひとりだとしない。出かけるのはいつも、目的があってそれを達成するためだけだ。本を買うため、新刊を確認するために書店にいく。平日、朝がきたから莉央の姿を拝みに学校にいく。そんな調子で、なんでもない時間を楽しむっていうことを、しようと思わないできた。

 ふと、感性が豊かになったみたいに、心地いい風を感じた。なんとなく空を見れば、朝のさわやかな青空に少しの雲が浮かんでいるのが見える。そうか、こういうのを味わうことこそを、目的にするのも素敵かもしれない。

 「皐月くんは普段、お散歩しない?」

 チリチリと自転車の車輪が回る音に混ざって、莉央がいった。

 「今まであんまりしなかったかも。買いものにいくためとか、学校にいくためとか、そういうことでしか外に出てなかった。こうしたら目的達成、っていうのがわかりやすい目的のためにしか出かけてなかった」

 「もったいないね?」という莉央に「ほんとう」とうなずく。

 「ぜひ、散歩の楽しみを教えてよ」

 「深くゆっくり呼吸をして、いろんな音に耳を澄ませて、いろんな色に目を向けて、のんびりゆっくり歩くの」

 「莉央の声、聞いてたい」

 莉央はふわりと大きくした目でこちらを見た。それからかわいらしく笑う。

 「わたしの声なんて、聞いてもつまらないよ?」

 「そんなことないよ」

 「わたしの声はいつでも聞けるでしょう? でも風の音とか、鳥の声とか、そういう音は二度と同じように聞こえてこないよ」

 「そうかな」

 風の音も鳥の声も、みんないつも同じように聞こえている。

 ……でももしかしたら、よく聞けば、いつも聞こえている音と、これから莉央との散歩の中で聞く音とは、なにかが違うかもしれない。

 散歩が終わってから、そういう話で、莉央の声を聞こう。