「えっ、もうこんな時間!」といって、天使は、莉央は慌ただしく立ちあがり、かばんを肩にかけた。

 「本は?」と声をかけると、「油くさくなっちゃうよ」とかわいらしく笑う。

 これでちょっと嬉しいと思うのは、俺がちょっと計算高いからかもしれない。きょうこれで本を持っていかなければ、あしたもまたこうして放課後を過ごせるかもしれないという期待が芽吹く。

 その期待は実際に叶えられた。

 俺はまた、国語のくじの棒をもてあそびながら天使を眺めている。普段なら俺も読んでいるところだけれど、目の前に莉央がいるとなれば、文字が並んでばかりの紙を眺めているわけにいかない。それよりも目に焼きつけるべき景色がある。本の内容よりも胸に刻みこむべき幸せがある。

 架空の幸せよりも目の前にある現実の幸せが優先だ。

 莉央が目の前で笑っていることが苦しいほど嬉しい。莉央が目の前で笑っていることに苦しいほど満たされる。

 本っていいなと思うのと一緒に、坂本先生のことを考える。あの先生には一生かけても返せない恩がある。手元の棒と一緒に。

 本は俺のそばに紺谷莉央という天使を連れてきてくれた。

 でもそのきっかけをくれたのは、ほかでもない坂本先生なのだ。坂本先生のあの授業がなければ、俺は本にこんなに感謝することも、本をこんなに大切に思うこともなかった。

 坂本先生……坂本、なんていってたかな。名字しか知らないような人なのに、こんなにも大きな存在になるなんて。

 本を読んで誰かに話す。そんなことを、俺はひとりで思いついただろうか。思いついたところで、莉央は俺の話をあんなに頑張って聞いてくれただろうか。……いや、その心配はないか。莉央はやさしいから、きっと俺のへたくそな喋りも真剣に聞いてくれたに違いない。

 不安なのはやっぱり、俺が読んだ本について莉央に話したかどうか、だ。答えは少なく見ても七十パーセントくらいの確率でノーだろう。

 あーあ、今まで先生なんて、ただ教室全体に喋ってるだけの人だったのに。

 坂本先生——こんなに大きな人に出会えるとは。

 改めて先生の言葉が思い出される。

 『世の中に悪い人なんていないよ。誰のことも、好きな人とか、その人の大切な人だと思うことだよ』——。

 うざくてもいいから頭の片隅に置いておいてよ、か——。

 うざくてしょうがないけど(、、、、、、、、、、、、)、頭の片隅には置いておきますよ、坂本先生。