困っている。俺は今、ものすごく困っている。
ああそうだな、たとえば、道端で財布を拾ったとき。
『心の中の天使がいう、交番に届けなさいと。心の中の悪魔がいう、ちょっとくらい盗んだって問題ないさと』
みたいなことがあるでしょう。いや、俺はそもそも道端で財布を見かけないけれども。
とにかく、俺は今困っている。ものすごく困っている。それはもう、あの隣国の王さまくらい困っている。目の前で繰り広げられる光景に。
そう、あの美少女はどうしたって見間違えるはずがない。俺の天使の紺谷莉央(ああ、なんてかわいらしい名前だろう!)。
その紺谷が、莉央が、紺谷莉央が、ほかの男といる。
ここで俺の中に湧きあがってくるのが、我が雪森家の訓戒。三つの令。
強く正しく美しく。
——『美しく』。
俺だって、親の教えに逆らおうとは思わない。そんな非行少年じゃない。
え?……いや、たしかに秋野と桃原には水かけたけどさ。感情に任せてやらかしたけどさ。
とにかく、これからは強く正しく美しい人間になろうと思っているわけだ。
でも、目の前にこの光景だ。俺の天使が俺以外の男といる! ああ神様と叫びたい。どうかお助けくださいとすがりたい。どうか美しい人間になれるようお導きくださいと。
ああ、わかっている。ほんとうはわかっているんだ、ここは耐えるべきだと。先生もいっていた、すべての人を莉央の大切な人だと思いなさいと。
家の教えと先生の言葉に従うなら、俺は目の前で莉央に接触していやがるあの男に感謝しなくちゃいけない。
だってあの男は、明らかに莉央のなにか作業を手伝っている。だから、ああ、莉央のためにありがとうと、莉央を助けてくれてありがとうと、このありがたみをきちんと感じ、噛み締め、覚えていなくてはいけない。
……でもさ。
でもさ俺、この間まで小学生なんだよ。いや、小学生をばかにしているわけじゃない。でも事実として、人生百年、その十分の一ほどの年齢じゃ、まだかなり若いと思うんだ。
そんな若い俺が、この煮えたぎるような嫉妬に耐えられるものか……⁉︎
普段のへらへらしてるのが本性だと思ってもらっちゃ困る。ああ、工藤にバカップルといわれたとき、どんっなに嬉しかったか! ああ、みんなに見せつけてやろうっていうのはうまくいったんだと思って、狂ったように喜んで乱れ、舞でも舞いそうだった。ひとりで。
ああ、今すぐにでもあの中に割って入りたい。あの男と一緒でもいいから莉央の視界に入りたい。あの様子じゃ、今の莉央が見ているのはあの男だけだ。それが我慢ならない。
あの男は今、莉央とふたりだけの小宇宙にいるのだ。互いの姿を見て、互いの声を聞いて、この時間を過ごしている。ああなんて、なんて妬ましい……!
こんなに苦しいなら入っていけばいいのか? でもそんなことをすれば、俺はきっと莉央をどこかへ連れ出してしまう。学校の中でふたりきりになれるところなんてない。わかっちゃいるけれどもどこかしらに連れ出さなくては気が済まない。
……そんなことをして、美しい人であれるはずがない。せっかく莉央が、三つの令を守れたといってくれたんだ。
二度とやぶってなるものか。
ああ頼む、頼む頼む……どうか早く離れてくれ……莉央から俺の天使から離れてくれ……!
伝われ、伝われ伝われ……時よ進め、一秒でも早く過ぎ去るのだ……!
「なにひとりでぶつぶついってんの、薄気味悪いよ?」と声がして、はっとする。工藤だった。
声に出てた……⁉︎ いや声にも出るさ。だってこんなにも狂おしい嫉妬に駆られているのだから!
「ああ、工藤……! 今の俺にはおまえが天使かなんかに見えるよ!」
「天使かなんかってなに。天使に見ればいいじゃん」
すっと興奮が落ち着く。「え、なに、莉央並みにかわいいと思ってんの?」
「ええなに怖、てかうざ」
「まあいい工藤、俺としりとりでもしよう」
「え、やだ」
ああそうだな、たとえば、道端で財布を拾ったとき。
『心の中の天使がいう、交番に届けなさいと。心の中の悪魔がいう、ちょっとくらい盗んだって問題ないさと』
みたいなことがあるでしょう。いや、俺はそもそも道端で財布を見かけないけれども。
とにかく、俺は今困っている。ものすごく困っている。それはもう、あの隣国の王さまくらい困っている。目の前で繰り広げられる光景に。
そう、あの美少女はどうしたって見間違えるはずがない。俺の天使の紺谷莉央(ああ、なんてかわいらしい名前だろう!)。
その紺谷が、莉央が、紺谷莉央が、ほかの男といる。
ここで俺の中に湧きあがってくるのが、我が雪森家の訓戒。三つの令。
強く正しく美しく。
——『美しく』。
俺だって、親の教えに逆らおうとは思わない。そんな非行少年じゃない。
え?……いや、たしかに秋野と桃原には水かけたけどさ。感情に任せてやらかしたけどさ。
とにかく、これからは強く正しく美しい人間になろうと思っているわけだ。
でも、目の前にこの光景だ。俺の天使が俺以外の男といる! ああ神様と叫びたい。どうかお助けくださいとすがりたい。どうか美しい人間になれるようお導きくださいと。
ああ、わかっている。ほんとうはわかっているんだ、ここは耐えるべきだと。先生もいっていた、すべての人を莉央の大切な人だと思いなさいと。
家の教えと先生の言葉に従うなら、俺は目の前で莉央に接触していやがるあの男に感謝しなくちゃいけない。
だってあの男は、明らかに莉央のなにか作業を手伝っている。だから、ああ、莉央のためにありがとうと、莉央を助けてくれてありがとうと、このありがたみをきちんと感じ、噛み締め、覚えていなくてはいけない。
……でもさ。
でもさ俺、この間まで小学生なんだよ。いや、小学生をばかにしているわけじゃない。でも事実として、人生百年、その十分の一ほどの年齢じゃ、まだかなり若いと思うんだ。
そんな若い俺が、この煮えたぎるような嫉妬に耐えられるものか……⁉︎
普段のへらへらしてるのが本性だと思ってもらっちゃ困る。ああ、工藤にバカップルといわれたとき、どんっなに嬉しかったか! ああ、みんなに見せつけてやろうっていうのはうまくいったんだと思って、狂ったように喜んで乱れ、舞でも舞いそうだった。ひとりで。
ああ、今すぐにでもあの中に割って入りたい。あの男と一緒でもいいから莉央の視界に入りたい。あの様子じゃ、今の莉央が見ているのはあの男だけだ。それが我慢ならない。
あの男は今、莉央とふたりだけの小宇宙にいるのだ。互いの姿を見て、互いの声を聞いて、この時間を過ごしている。ああなんて、なんて妬ましい……!
こんなに苦しいなら入っていけばいいのか? でもそんなことをすれば、俺はきっと莉央をどこかへ連れ出してしまう。学校の中でふたりきりになれるところなんてない。わかっちゃいるけれどもどこかしらに連れ出さなくては気が済まない。
……そんなことをして、美しい人であれるはずがない。せっかく莉央が、三つの令を守れたといってくれたんだ。
二度とやぶってなるものか。
ああ頼む、頼む頼む……どうか早く離れてくれ……莉央から俺の天使から離れてくれ……!
伝われ、伝われ伝われ……時よ進め、一秒でも早く過ぎ去るのだ……!
「なにひとりでぶつぶついってんの、薄気味悪いよ?」と声がして、はっとする。工藤だった。
声に出てた……⁉︎ いや声にも出るさ。だってこんなにも狂おしい嫉妬に駆られているのだから!
「ああ、工藤……! 今の俺にはおまえが天使かなんかに見えるよ!」
「天使かなんかってなに。天使に見ればいいじゃん」
すっと興奮が落ち着く。「え、なに、莉央並みにかわいいと思ってんの?」
「ええなに怖、てかうざ」
「まあいい工藤、俺としりとりでもしよう」
「え、やだ」