給食が終わった昼休み、トイレでハンカチを口にくわえて手を洗っていると、「あ、紺谷さん」と声がした。見れば、工藤さんだった。
わたしはハンカチで手を拭きながら「工藤さん」と答える。
「学校のトイレって、なんか落ち着かないよね」と工藤さん。
「そう?」
「ゆっくりできなくない? ああ、でも学校に限ったことじゃないか。あたし、基本的に家以外の場所のトイレって好きじゃない」
「たしかに、家のトイレが一番落ち着くのはわかるかも」
「でも今は緊急事態」といって工藤さんは笑う。「なんかきょう、やたら喉がかわいてさ。授業が終わるたびに水筒開けてたんだけど、そのばちが今あたった」と。
「ちょっと待ってて。話、したいからちょっと待ってて」といわれ、「うん、ゆっくりでいいよ」と答える。
「外で待ってるね」と声をかけて、トイレを出た。
扉のそばで、家に帰ってからの過ごしかたを考えていると、「紺谷さん」と呼ばれた。薄く開いた扉の隙間からこちらを覗くようにして工藤さんがいる。
わたしは工藤さんがそうしたがっているように感じて、トイレの中に入った。
工藤さんはわたしの手首を引いた。
「紺谷さんは、雪森のこと好きなの?」
「えっ……」
自分でも驚くくらい、嫌な気分。なにかが壊れるみたいな、消えてしまうみたいな、寂しさ、悲しさと怖さがぐちゃぐちゃになったような気分。
ぐちゃぐちゃになった気分がもくもくと胸の奥に満ちていくのを感じながら、その壊れてしまうことが、消えてしまうことが怖いのが、皐月くんとの小宇宙だと気づいた。
やっと、「好きだよ」と答えた。でも、好きと答えることに迷いはなかった。
「雪森のことが?」と工藤さんは眉を寄せる。
「好き。大好き」
「どこが?」
「全部だよ。一緒にいると楽しいの。すごく、嬉しくなる」
「……雪森はやめたほうがいいと思うよ」
「……どうして?」
「わかるでしょ。性格悪すぎるって」
「性格……?」
「人のこと平気でぶすとかいったりさ。紺谷さんだって、……その、……実際にはどう思われてるか……」
尻すぼみになった声に、わたしは「ううん」と首をふる。
「わたしはちゃんと、皐月くんのことを知ってる」
「全部?」
「ううん、全部のはずはないよ」
「それじゃあ、今後どんな顔が出てくるか」
「うん、わからない。でもそれは皐月くんだけじゃない。わたしにだって、きっと、わたしの知らないわたしがある。皐月くんだって、それを不安に思ってるかもしれない。でもそれを気にしてちゃ、誰とも一緒にいられない。……工藤さんとだって」
工藤さんは傷ついたように目を見開いた。
「違うよ、あたしは紺谷さんが心配で……」
「工藤さんは、皐月くんにひどいことされたの?」
「そういうんじゃないけど……。普段の様子を見てれば、あんまりいいやつじゃないことくらいはわかる」
「わたしは大丈夫だよ。皐月くんはいい人だから。もちろん、最初はからかってるんだと思った。明らかにわたしよりかわいい人を、そうじゃないっていうんだもん。でも、皐月くんには皐月くんの基準があるのがわかった。
わたしは自分で自分が、皐月くんに褒められるような人だとは思わないけど、でも、皐月くんはわたしを褒めてくれる。わたしは皐月くんを裏切らないでいたい。大好きだから。一緒にいて、もっとお互いを知っていって、好きになったりびっくりしたりしたい」
勝手に言葉が出てくる。こんなに、誰かを否定したのははじめてだった。相手がなんていっていようと、まずはそれをちゃんと聞く。そんなふうに過ごしてきた。それなのに、今のわたしは、工藤さんの言葉をちょっと聞いただけで、こんなにも自分の考えをしゃべっている。
まるで、わたしはもう皐月くんの声だけを聞くと、決めたみたいに。
工藤さんはふわりと表情をやわらげた。
「そう」とちょっと笑ったような声。
「ほんとうにバカップルだね。紺谷さんが雪森のこと、そんなふうに思ってたなんて知らなかった。なんか、おせっかい焼いちゃったみたいだね」
「え、あ……ううん、いいんだよ。わたしこそごめんね、せっかく気にかけてくれたのに……」
「ううん、全然全然。あたし、全然知らないのに口出ししちゃった。あたしなんかよりずっと、紺谷さんは雪森のこと知ってるんだね。あいつをひどいやつだとばっかり思ってたから、どうしても紺谷さんに傷ついてほしくなくて……。むしろあたしが傷つけたじゃんね、好きな人、こんなひどくいってさ」
「ううん、いいんだよ。たしかに皐月くんって、はっきりいう人だから、工藤さんのほかにも、同じように思ってる人って意外といるかもしれないし。それどころかわたしだって、最初は皐月くんのこと、怖い人なのかなって思ってたし」
「ああ、そうなんだね」
あいつ、もっと言葉選べばいいのにね、という工藤さんに、あれが皐月くんの魅力だよとわたしは笑い返す。
わたしはハンカチで手を拭きながら「工藤さん」と答える。
「学校のトイレって、なんか落ち着かないよね」と工藤さん。
「そう?」
「ゆっくりできなくない? ああ、でも学校に限ったことじゃないか。あたし、基本的に家以外の場所のトイレって好きじゃない」
「たしかに、家のトイレが一番落ち着くのはわかるかも」
「でも今は緊急事態」といって工藤さんは笑う。「なんかきょう、やたら喉がかわいてさ。授業が終わるたびに水筒開けてたんだけど、そのばちが今あたった」と。
「ちょっと待ってて。話、したいからちょっと待ってて」といわれ、「うん、ゆっくりでいいよ」と答える。
「外で待ってるね」と声をかけて、トイレを出た。
扉のそばで、家に帰ってからの過ごしかたを考えていると、「紺谷さん」と呼ばれた。薄く開いた扉の隙間からこちらを覗くようにして工藤さんがいる。
わたしは工藤さんがそうしたがっているように感じて、トイレの中に入った。
工藤さんはわたしの手首を引いた。
「紺谷さんは、雪森のこと好きなの?」
「えっ……」
自分でも驚くくらい、嫌な気分。なにかが壊れるみたいな、消えてしまうみたいな、寂しさ、悲しさと怖さがぐちゃぐちゃになったような気分。
ぐちゃぐちゃになった気分がもくもくと胸の奥に満ちていくのを感じながら、その壊れてしまうことが、消えてしまうことが怖いのが、皐月くんとの小宇宙だと気づいた。
やっと、「好きだよ」と答えた。でも、好きと答えることに迷いはなかった。
「雪森のことが?」と工藤さんは眉を寄せる。
「好き。大好き」
「どこが?」
「全部だよ。一緒にいると楽しいの。すごく、嬉しくなる」
「……雪森はやめたほうがいいと思うよ」
「……どうして?」
「わかるでしょ。性格悪すぎるって」
「性格……?」
「人のこと平気でぶすとかいったりさ。紺谷さんだって、……その、……実際にはどう思われてるか……」
尻すぼみになった声に、わたしは「ううん」と首をふる。
「わたしはちゃんと、皐月くんのことを知ってる」
「全部?」
「ううん、全部のはずはないよ」
「それじゃあ、今後どんな顔が出てくるか」
「うん、わからない。でもそれは皐月くんだけじゃない。わたしにだって、きっと、わたしの知らないわたしがある。皐月くんだって、それを不安に思ってるかもしれない。でもそれを気にしてちゃ、誰とも一緒にいられない。……工藤さんとだって」
工藤さんは傷ついたように目を見開いた。
「違うよ、あたしは紺谷さんが心配で……」
「工藤さんは、皐月くんにひどいことされたの?」
「そういうんじゃないけど……。普段の様子を見てれば、あんまりいいやつじゃないことくらいはわかる」
「わたしは大丈夫だよ。皐月くんはいい人だから。もちろん、最初はからかってるんだと思った。明らかにわたしよりかわいい人を、そうじゃないっていうんだもん。でも、皐月くんには皐月くんの基準があるのがわかった。
わたしは自分で自分が、皐月くんに褒められるような人だとは思わないけど、でも、皐月くんはわたしを褒めてくれる。わたしは皐月くんを裏切らないでいたい。大好きだから。一緒にいて、もっとお互いを知っていって、好きになったりびっくりしたりしたい」
勝手に言葉が出てくる。こんなに、誰かを否定したのははじめてだった。相手がなんていっていようと、まずはそれをちゃんと聞く。そんなふうに過ごしてきた。それなのに、今のわたしは、工藤さんの言葉をちょっと聞いただけで、こんなにも自分の考えをしゃべっている。
まるで、わたしはもう皐月くんの声だけを聞くと、決めたみたいに。
工藤さんはふわりと表情をやわらげた。
「そう」とちょっと笑ったような声。
「ほんとうにバカップルだね。紺谷さんが雪森のこと、そんなふうに思ってたなんて知らなかった。なんか、おせっかい焼いちゃったみたいだね」
「え、あ……ううん、いいんだよ。わたしこそごめんね、せっかく気にかけてくれたのに……」
「ううん、全然全然。あたし、全然知らないのに口出ししちゃった。あたしなんかよりずっと、紺谷さんは雪森のこと知ってるんだね。あいつをひどいやつだとばっかり思ってたから、どうしても紺谷さんに傷ついてほしくなくて……。むしろあたしが傷つけたじゃんね、好きな人、こんなひどくいってさ」
「ううん、いいんだよ。たしかに皐月くんって、はっきりいう人だから、工藤さんのほかにも、同じように思ってる人って意外といるかもしれないし。それどころかわたしだって、最初は皐月くんのこと、怖い人なのかなって思ってたし」
「ああ、そうなんだね」
あいつ、もっと言葉選べばいいのにね、という工藤さんに、あれが皐月くんの魅力だよとわたしは笑い返す。