雪森くんは深く息をついて、顔を洗うように手でこすった。
「……桃原と、秋野は……まだ引きずってるんです、俺に水をかけられたこと。だから顔を合わせるたびにいい合いになります」
「雪森はさ」と先生がいった。
「桃原や秋野がなにかいうと、いい返しちゃうの?」
「俺はたぶんひどいやつです」と雪森くんは静かにいう。
「だから後悔してないんです、ふたりに水かけたこと。それであの女子を救ったなんて思ってません、だって俺自身がすっきりするためにやったから。
……俺は、自分がそうしたいからってだけで、自分がふたりを気に入らなかったってだけの理由で、わざわざ道具入れにバケツを取りにいって、そのバケツにこぼれるほどの水をくんで、後ろからふたりに近づいて、バケツの中身をふたりめがけて、ふたりの頭めがけてぶちまけた」
雪森くんは静かに笑って、首を横にふる。
「いかれてますよ」とつぶやく。
「わかってるんです、でも後悔はできない。自分が悪かったと、自分が間違ってたと思えない。
結局、その女子はどこかの中学を受験して、そこにいきました。卒業式で、ほかの何人かに混ざって俺たちとは違う制服を着てました。その理由は、桃原と秋野にいじめられたからじゃないかもしれない。ふたりの顔を見たくなかったからじゃないかもしれない。
俺のせいで事が大きくなって恥ずかしかったからかもしれない、俺の顔を二度と見たくないからほかの中学にいったのかもしれない、でも!……でも俺は、そうだったとしても、俺は後悔できないんです。……少なくとも、あの女子の口から直接、そう聞くまでは。
あの人が『あんたのせいで』っていってくれたら死ぬまでだって後悔しましょう。あの人が『あんたのせいで大切な友達と離れ離れになった』といってくれたら泣いて謝りましょう、あの人が『あんたが泣くことじゃない』といえば口の中でも外でも噛んで泣くのをこらえて謝りましょう、でも。
……でも、あの人はいない。倉田寧々は俺たちとは違う中学にいった。あの人の口からあの人の声で『あんたのせいで』といわれることはない。……俺は、後悔できない。自分が間違っていたと理解できない。
だから、桃原に秋野にいい合いをふっかけられるたび、いい返しちゃうんです。俺は後悔してないから。『いきなり水をかけるひどいやつ』じゃないから。『いきなり』じゃない、何度も何度も何度もなんっども、俺は耐えた。だから、いい返さずにはいられないんです」
「……そのいい合いが」と先生。「今回は激しくなったと?」
雪森くんは二度、三度とうなずいた。「はい」
「……なんでまた、あんな激しい言葉を使ったんだ?」
「好きな人が貶されたので」
「好きな人?」と先生は片眉をあげた。
「誰かなんて、いう必要が?」
「いや、そんなつもりで聞いたんじゃないよ」おだやかにいうと、先生はゆっくりと背中を背もたれにあずけた。「好きな人を悪くいわれて、あんなことを?」
「それくらいのことでと思いますか。許せなかったんです。自分のことだったらどうでもいいんですよ、内面に関することでも見た目に関することでも、俺がおととい桃原にいったような脅し文句でも、正直あまり感じません。
でも好きな人が悪くいわれた場合は違う。しかもあいつは、その人が気にして臆病になってるところを、汚らしく笑いながら踏みつけるみたいにいったんですよ、なんで放っておけますか、なんで自分のことみたいに鈍感でいられますか!」
雪森くんは深く、震える息を吐き出した。
ふっと、かすかに笑うような吐息がつづく。
「俺、許せないと思って涙浮かんできたのって、おとといがはじめてです」
ずん、と、なにかが胸を貫いた。
あのとき、雪森くんの目は濡れていた? わたしなんかのために?
「これで全部です。おととい、俺が暴言を吐くまでの経緯」
「……そう。じゃあ雪森、このあとどうすべきかはわかるね」
「桃原や秋野と口をきかないことでしょう」
先生は叱るような目で雪森くんを見た。
「謝りませんよ。あいつが悪くいったのがいけないんですから」
「でも、いさかいが起きたきっかけは、小学校のころ、雪森が桃原に水をかけたことだろう?」
「あいつに自覚がないからでしょう、なんで水をかぶったか、自分でわかってないからです。だから逆ギレするんですよ」
「じゃあ、雪森の好きな人に、直接謝るよう桃原にいってみようか」
雪森くんが息を吸いこむ気配がする。今にもテーブルを殴りつけそうな、怒りの気配が痛いほど伝わってくる。
「……わかりました」
雪森くんの声は、あまりに冷静だった。
「先生は倉田じゃない。でも、あの人も先生と同じことを思ってると、信じてみます」
「誰かを大切に思うのは素敵なことだけどね、雪森。その人を悪くいわれたからって、相手にひどいことをいったりしたりしちゃいけないよ」
「……はい」
「おとといいったことを実際に行動に起こすなんてのは言語道断だ。誰のことも傷つけちゃいけない。世の中に悪い人なんていないよ。誰のことも、好きな人とか、その人の大切な人だと思うことだよ」
「お寺の人みたいなこといいますね」
「うざくてもいいから、頭の片隅に置いておいてよ」
「……桃原と、秋野は……まだ引きずってるんです、俺に水をかけられたこと。だから顔を合わせるたびにいい合いになります」
「雪森はさ」と先生がいった。
「桃原や秋野がなにかいうと、いい返しちゃうの?」
「俺はたぶんひどいやつです」と雪森くんは静かにいう。
「だから後悔してないんです、ふたりに水かけたこと。それであの女子を救ったなんて思ってません、だって俺自身がすっきりするためにやったから。
……俺は、自分がそうしたいからってだけで、自分がふたりを気に入らなかったってだけの理由で、わざわざ道具入れにバケツを取りにいって、そのバケツにこぼれるほどの水をくんで、後ろからふたりに近づいて、バケツの中身をふたりめがけて、ふたりの頭めがけてぶちまけた」
雪森くんは静かに笑って、首を横にふる。
「いかれてますよ」とつぶやく。
「わかってるんです、でも後悔はできない。自分が悪かったと、自分が間違ってたと思えない。
結局、その女子はどこかの中学を受験して、そこにいきました。卒業式で、ほかの何人かに混ざって俺たちとは違う制服を着てました。その理由は、桃原と秋野にいじめられたからじゃないかもしれない。ふたりの顔を見たくなかったからじゃないかもしれない。
俺のせいで事が大きくなって恥ずかしかったからかもしれない、俺の顔を二度と見たくないからほかの中学にいったのかもしれない、でも!……でも俺は、そうだったとしても、俺は後悔できないんです。……少なくとも、あの女子の口から直接、そう聞くまでは。
あの人が『あんたのせいで』っていってくれたら死ぬまでだって後悔しましょう。あの人が『あんたのせいで大切な友達と離れ離れになった』といってくれたら泣いて謝りましょう、あの人が『あんたが泣くことじゃない』といえば口の中でも外でも噛んで泣くのをこらえて謝りましょう、でも。
……でも、あの人はいない。倉田寧々は俺たちとは違う中学にいった。あの人の口からあの人の声で『あんたのせいで』といわれることはない。……俺は、後悔できない。自分が間違っていたと理解できない。
だから、桃原に秋野にいい合いをふっかけられるたび、いい返しちゃうんです。俺は後悔してないから。『いきなり水をかけるひどいやつ』じゃないから。『いきなり』じゃない、何度も何度も何度もなんっども、俺は耐えた。だから、いい返さずにはいられないんです」
「……そのいい合いが」と先生。「今回は激しくなったと?」
雪森くんは二度、三度とうなずいた。「はい」
「……なんでまた、あんな激しい言葉を使ったんだ?」
「好きな人が貶されたので」
「好きな人?」と先生は片眉をあげた。
「誰かなんて、いう必要が?」
「いや、そんなつもりで聞いたんじゃないよ」おだやかにいうと、先生はゆっくりと背中を背もたれにあずけた。「好きな人を悪くいわれて、あんなことを?」
「それくらいのことでと思いますか。許せなかったんです。自分のことだったらどうでもいいんですよ、内面に関することでも見た目に関することでも、俺がおととい桃原にいったような脅し文句でも、正直あまり感じません。
でも好きな人が悪くいわれた場合は違う。しかもあいつは、その人が気にして臆病になってるところを、汚らしく笑いながら踏みつけるみたいにいったんですよ、なんで放っておけますか、なんで自分のことみたいに鈍感でいられますか!」
雪森くんは深く、震える息を吐き出した。
ふっと、かすかに笑うような吐息がつづく。
「俺、許せないと思って涙浮かんできたのって、おとといがはじめてです」
ずん、と、なにかが胸を貫いた。
あのとき、雪森くんの目は濡れていた? わたしなんかのために?
「これで全部です。おととい、俺が暴言を吐くまでの経緯」
「……そう。じゃあ雪森、このあとどうすべきかはわかるね」
「桃原や秋野と口をきかないことでしょう」
先生は叱るような目で雪森くんを見た。
「謝りませんよ。あいつが悪くいったのがいけないんですから」
「でも、いさかいが起きたきっかけは、小学校のころ、雪森が桃原に水をかけたことだろう?」
「あいつに自覚がないからでしょう、なんで水をかぶったか、自分でわかってないからです。だから逆ギレするんですよ」
「じゃあ、雪森の好きな人に、直接謝るよう桃原にいってみようか」
雪森くんが息を吸いこむ気配がする。今にもテーブルを殴りつけそうな、怒りの気配が痛いほど伝わってくる。
「……わかりました」
雪森くんの声は、あまりに冷静だった。
「先生は倉田じゃない。でも、あの人も先生と同じことを思ってると、信じてみます」
「誰かを大切に思うのは素敵なことだけどね、雪森。その人を悪くいわれたからって、相手にひどいことをいったりしたりしちゃいけないよ」
「……はい」
「おとといいったことを実際に行動に起こすなんてのは言語道断だ。誰のことも傷つけちゃいけない。世の中に悪い人なんていないよ。誰のことも、好きな人とか、その人の大切な人だと思うことだよ」
「お寺の人みたいなこといいますね」
「うざくてもいいから、頭の片隅に置いておいてよ」



