教科書が多くて、机の中で一冊か二冊だけ、別の場所に入れておいた。
今にもからすが鳴きそうな、きれいなきれいな夕空。ぼうっとそのオレンジ色に染まった、コンクリートの柱が何本も立つ自転車置き場。
わたしはふわっと、不安のにおいを嗅ぎとった。
別の場所に入れた教科書、かばんに入れたっけ……?
わたしは自転車のサドルにかばんをおいて、その中身を確認した。数学、国語、理科……。やっぱりない。公民と歴史の教科書がない。
かばんのチャックを閉めると、わたしはかばんをリュックサックのように背負った。そのまま自転車置き場を出て、昇降口のほうへ戻っていく。
途中ですれ違ったふたり組の女の子が、「ほんと〜?」「ほんとほんと!」と楽しそうに話していた。
わたしは昇降口で上履きに履きかえ、廊下を進んでいく。ひとつ目の角を左に曲がってふたつ目の教室が、一年四組の教室。わたしの忘れ物が待っている教室。
そこへ向かって歩いていくと、ふと、「雪森はさ」と声がして、思わず足を止めた。誰か女の子が教室にいる。教室で、雪森くんと話をしている。
「今、好きな人とかいるの?」
「好きな人っていうのは?」と雪森くん。
「それは友達も含めていいわけ?」
雪森くんのいじわるな返事に、女の子は「だめに決まってるでしょ」といい返す。
「恋愛的な意味。恋愛的な意味で、好きな人はいるのって聞いてるの」
「恋愛的な意味かは知らないけど、すっごいかわいいと思う女子はいる」
しんと、まるで空気が、冷えきったみたいに張りつめた。
ジィッというような音が響いた。ペンケースのチャックを閉めるみたいな、開けるみたいな。
「それは? あたし?」と女の子がいった。すごい!と拍手したくなるのを必死にこらえる。
「ええ、なんで」と雪森くんは笑う。「おまえ、美人じゃないじゃん」
がちん、と頭が体がかたまった。雪森くん、そういうこというの……?
「俺、ぶすって嫌いなんだよ」
美人が好きっていうのは、誰にも否定されるべきじゃない、自由で間違いなんてない、その人の大切な部分だと思う。もちろん、それは美人だけじゃない。背の高い人が好きとか、反対に背の低い人が好きとか、ほかにもいろんな好きな人っていう姿があっていいと思う。でも……。
あんないいかたしなくたってよくない?
どんないいかたをするか、どんな言葉を使うか、それだってもちろん自由で、否定されるべきことじゃないとは思うけど、でも自由っていったって、やっぱりなんでもかんでも守ってくれるものじゃないと思う。
「雪森の好きな人、あたし見てみたい」と、女の子の震えた声がする。
「さぞかし美人なんでしょうよ。あたしなんかとは比べものにならないくらい」
「そうだね」という雪森くんの声は、あんまりに冷静で。ただ聞こえてくるだけの、盗み聞きするようなわたしでも、苦しくなってくる。
好きな人に告白しようとして、でもすごく恥ずかしくて、勇気が出なくて。でも相手がかわいいと思う人がいるっていうから、精いっぱい笑って、小さな光が手にふれることを期待して、でもちゃんとわかってるよって伝えるために、冗談ぽさをいっぱいに表現して、わたしのこと?っていったのに。
相手は、ええなんで、って笑う。なんでそうなるの、とか、なんでそう思ったの、というように、相手は笑う。どんなにつらいだろう。それでも必死に、あなたの好きな人を見てみたいっていって、美人なんだろうねって精いっぱい強がった。それなのに、相手はそうだねとただ一言、冷静に返すだけ。
「あたし、見た目はけっこういいと思うんだけど」
「そうかもね」
「じゃあなんで」
「俺はおまえが好きじゃない」
しばらく静かになって、ばしんと机を叩く音が大きく響いた。
「あんたが最低なやつだっていいふらしてやる」女の子の声の震えが大きくなっている。
「ただの美人好きじゃない、自分が美人だと思わなかった相手には平気でぶすとかいう、最低なやつだって」
「好きにすればいいよ。それで大騒ぎすんのって、ぶすだけだろ?」
「美人だって寄りつかなくなる!」
「そうかもね。でもそれならそれでいいよ。俺に美人はもったいないってことで」
がたんと椅子が動く音がした。
「そっちのノート、ちょうだい」と雪森くん。
「いいよ、出しておく」と女の子。
「そう。どーも」
足音が近づいてきて、わたしは慌てて隣の教室に隠れた。男子の制服を着た人が、雪森くんが、わたしのすぐそばを通って、歩いていく。
その姿を見送る間、思わず息を止めていた。それに気づいて深く呼吸を再開する。
ここを通った雪森くんの表情は、まるでさっきまでの会話がなかったみたいに冷静で、深いことはまるで考えていないみたいだった。あんなひどいことをいって、どうしてあんな平然としていられるんだろう。
今にもからすが鳴きそうな、きれいなきれいな夕空。ぼうっとそのオレンジ色に染まった、コンクリートの柱が何本も立つ自転車置き場。
わたしはふわっと、不安のにおいを嗅ぎとった。
別の場所に入れた教科書、かばんに入れたっけ……?
わたしは自転車のサドルにかばんをおいて、その中身を確認した。数学、国語、理科……。やっぱりない。公民と歴史の教科書がない。
かばんのチャックを閉めると、わたしはかばんをリュックサックのように背負った。そのまま自転車置き場を出て、昇降口のほうへ戻っていく。
途中ですれ違ったふたり組の女の子が、「ほんと〜?」「ほんとほんと!」と楽しそうに話していた。
わたしは昇降口で上履きに履きかえ、廊下を進んでいく。ひとつ目の角を左に曲がってふたつ目の教室が、一年四組の教室。わたしの忘れ物が待っている教室。
そこへ向かって歩いていくと、ふと、「雪森はさ」と声がして、思わず足を止めた。誰か女の子が教室にいる。教室で、雪森くんと話をしている。
「今、好きな人とかいるの?」
「好きな人っていうのは?」と雪森くん。
「それは友達も含めていいわけ?」
雪森くんのいじわるな返事に、女の子は「だめに決まってるでしょ」といい返す。
「恋愛的な意味。恋愛的な意味で、好きな人はいるのって聞いてるの」
「恋愛的な意味かは知らないけど、すっごいかわいいと思う女子はいる」
しんと、まるで空気が、冷えきったみたいに張りつめた。
ジィッというような音が響いた。ペンケースのチャックを閉めるみたいな、開けるみたいな。
「それは? あたし?」と女の子がいった。すごい!と拍手したくなるのを必死にこらえる。
「ええ、なんで」と雪森くんは笑う。「おまえ、美人じゃないじゃん」
がちん、と頭が体がかたまった。雪森くん、そういうこというの……?
「俺、ぶすって嫌いなんだよ」
美人が好きっていうのは、誰にも否定されるべきじゃない、自由で間違いなんてない、その人の大切な部分だと思う。もちろん、それは美人だけじゃない。背の高い人が好きとか、反対に背の低い人が好きとか、ほかにもいろんな好きな人っていう姿があっていいと思う。でも……。
あんないいかたしなくたってよくない?
どんないいかたをするか、どんな言葉を使うか、それだってもちろん自由で、否定されるべきことじゃないとは思うけど、でも自由っていったって、やっぱりなんでもかんでも守ってくれるものじゃないと思う。
「雪森の好きな人、あたし見てみたい」と、女の子の震えた声がする。
「さぞかし美人なんでしょうよ。あたしなんかとは比べものにならないくらい」
「そうだね」という雪森くんの声は、あんまりに冷静で。ただ聞こえてくるだけの、盗み聞きするようなわたしでも、苦しくなってくる。
好きな人に告白しようとして、でもすごく恥ずかしくて、勇気が出なくて。でも相手がかわいいと思う人がいるっていうから、精いっぱい笑って、小さな光が手にふれることを期待して、でもちゃんとわかってるよって伝えるために、冗談ぽさをいっぱいに表現して、わたしのこと?っていったのに。
相手は、ええなんで、って笑う。なんでそうなるの、とか、なんでそう思ったの、というように、相手は笑う。どんなにつらいだろう。それでも必死に、あなたの好きな人を見てみたいっていって、美人なんだろうねって精いっぱい強がった。それなのに、相手はそうだねとただ一言、冷静に返すだけ。
「あたし、見た目はけっこういいと思うんだけど」
「そうかもね」
「じゃあなんで」
「俺はおまえが好きじゃない」
しばらく静かになって、ばしんと机を叩く音が大きく響いた。
「あんたが最低なやつだっていいふらしてやる」女の子の声の震えが大きくなっている。
「ただの美人好きじゃない、自分が美人だと思わなかった相手には平気でぶすとかいう、最低なやつだって」
「好きにすればいいよ。それで大騒ぎすんのって、ぶすだけだろ?」
「美人だって寄りつかなくなる!」
「そうかもね。でもそれならそれでいいよ。俺に美人はもったいないってことで」
がたんと椅子が動く音がした。
「そっちのノート、ちょうだい」と雪森くん。
「いいよ、出しておく」と女の子。
「そう。どーも」
足音が近づいてきて、わたしは慌てて隣の教室に隠れた。男子の制服を着た人が、雪森くんが、わたしのすぐそばを通って、歩いていく。
その姿を見送る間、思わず息を止めていた。それに気づいて深く呼吸を再開する。
ここを通った雪森くんの表情は、まるでさっきまでの会話がなかったみたいに冷静で、深いことはまるで考えていないみたいだった。あんなひどいことをいって、どうしてあんな平然としていられるんだろう。