家に帰ってから、体が勝手に、いつもより神経質に手を洗った。誰かになにかを借りるというのを、はじめて経験している。

 ……それが、雪森くんの本だなんて。

 友達の文房具とか、友達のゲームとかじゃなく、雪森くんの本。休み時間にいつも本を読んでいる雪森くんの。

 リビングのソファに座って、かばんから本を取り出す。自分の本だったら、すぐにカバーを放り投げてなにも考えずに表紙を開くのに、今回はそれができない。カバーを外してしまえば、カバーが破れてしまうようなことはないのだろうけれど、もしもなにかがあったとき、その『なにか』を受け止めるのは、この本の本体になってしまう。

 わたしはそっと、表紙を開く。教室で見た、邦題と原題、訳者と著者の名前が書いてある。

 次のページには、ぎっしりと登場人物の名前。

 こんなに出てくるの……?と困惑しつつ、ざっと目を通す。読んでいればわかるだろうと、最初からちょっと諦めモード。わからなかったら戻ってくるつもり。

 「お茶飲む?」というお母さんの声に「ううん」と答える。

 そりゃあ、せっかく海外が舞台の小説を読むんなら、紅茶でも飲みながらのんびりしてみたいけれど。でも、この本にもしものことがあったら、わたしは正気ではいられない。

 ふと、お母さんは「本⁉︎」と声をあげた。

 「へええ、莉央が本をねえ……。そっかあ……。人は子供に戻るっていうものねえ……」

 「これは成長っていってくれない?」

 「やだ、莉央ってば覚えてないの? 小さいころはしょっちゅう、ご本読んでたのよ。わたし、近くにDVDを借りにいくより、ちょっと遠くの図書館までいくことのほうが多かったんだから」

 「ちょっと、借りてきたの」と答えると、お母さんは湯呑みを持ってソファの隣に座ってきた。きょうに限って、お母さんが持っているのはティーカップじゃなくて湯呑み。日本茶のまったりした香りがただよってくる。

 「ああそうだ、ちょっと奮発して、いい羊羹を買ってきたの」といってキッチンへ戻っていく。……おやつまで日本色。「一緒に食べる?」という声に「いらない!」と答える。

 わたしはこれから海外が舞台の小説を読むの!……伝えていないのだから、こんなふうに怒るのはあんまりに理不尽なことだけれど。

 「どんな本なの?」

 「シンシア・ローズって作家さん、知ってる?」

 「ううん。似た名前はどこかで聞いたことがあるような気がするけど。どんな人なの?」

 「究極のハートウォーミング・ノベリストって呼ばれてるみたい」

 「どんなジャンルを書くの?」

 「わからない……。この一作は恋愛っぽいけど」

 「ふうん……。海外の恋愛ものねえ……。わたしは文字で追うより、映画で観たいね。綺麗な女優さんとかっこいい俳優さんとで。海外の小説なんて読む友達がいるの?」

 友達、という言葉が、ちくりと胸の奥に引っかかる。

 雪森くんを、人を平気でぶすとかいう人だといって以来、お母さんに雪森くんの話はしていない。

 そんな雪森くんが、友達……。

 それどころか、わたしは雪森くんといるとき、雪森くんと話しているときに、普通の友達には感じないような安らぎとどきどきとを感じている。

 友達、以上……。

 わたしは、雪森くんにすすめられる本をもとに、雪森くんという人を、深く知ろうとしている。


 お父さんはリビングに入ってくると、「お、莉央が本なんか読んでる」と声をこぼした。

 「恋愛小説ですって」とお母さん。

 「ほう……」という声と一緒に、お父さんの足音がお母さんのいるキッチンへ向かっていく。

 「いいねえ、恋愛。俺たちもひとつ、恋人のころに戻ってみようか?」

 「へえ? じゃあまずはその、いがぐりみたいなひげを剃ることね。それと、外気と電車のにおいの染みついた服をどうにかすること」

 「俺のひげはバラの棘みたいなものだよ」

 「残念だけどバラよりさくらが好きなの」

 「あ、そうだ。村岡が出張から戻ってきてさ。お土産にさくら餅買ってきてくれたんだよ」

 「あら。もう五月でしょ? まだ売ってるの?」

 「この辺じゃすっかり見ないよね。村岡もそれで買ってきたって」

 「ねえ莉央。さくら餅ですって!」

 「……」

 だから! 舞台は! 海外なの!

 「お茶淹れなくっちゃ。莉央は?」

 ああ、もう……。

 「食べる……!」