「雪森ってああいうのが好きなの?」という言葉と一緒に雪森くんの「俺は美人が好きだ」「ぶすが嫌い」という言葉が聞こえる中、雪森くんは今までとなにも変わらない調子でわたしを呼んだ。

 「紺谷。次、理科室だよな?」
 「あっ、紺谷だあ。おはよう」
 「紺谷はかわいい、きょうも」

 「ねえ、紺谷さ」
 「あのさ、紺谷」
 「そういや紺谷」

 紺谷、こんたに、コンタニ……。

 耳が自分の名字に対してゲシュタルト崩壊を起こしそうになる。
 そのくせ、……毎回毎回、ちょっと嬉しくて、あったかくなる。

 自分を呼んでくれる雪森くんの声がやさしくて、おだやかで、胸の奥が、耳の奥が、じんわりとあたたかく満ちて、風に乗って香った花の匂いのように、ふんわりと軽やかに甘くさわやかに幸せを感じる。

 わたしは決して、幸せに対して臆病じゃなかった。

 口いっぱいにほおばるパンは幸せを運ぶ。わたしはそれが大好きで、毎日のようにパンを食べる。

 こんなこと、幸せに対して臆病だったなら、できっこない。

 それなのに、わたしは……。
 雪森くんに名前を呼ばれることに、臆病になっている。

 あのやさしい声が、おだやかな声が、まるで針や刃物を包み隠しているかのように、不安になる。……臆病に、なる。

 雪森くんの声に「うん」と短く小さく答えることしかできなくなってから、その不安に気がついた。

 雪森くんに対する自分の声がすっかり変わってしまったことには早く気がついた。

 こんなに感じ悪く接するつもりはないのに。これじゃあまるで、わたしは心の奥で——雪森くんの声を聞くたびにじんわりとあたたかく満たされる心の奥で——雪森くんを傷つけようとする堕天使と一緒にいるみたいだ。

 そう思って、わたしは自分の中に堕天使を探した。もしも堕天使がいたのなら、わたしはすぐに雪森くんから離れなくちゃいけないから。誰にも、誰かを傷つけることなんて許されていないんだから。

 結局、わたしは不安を見つけた。それが探していた堕天使なのかはわからないけれど。

 でも、ひとつだけたしかなことは、わたしが雪森くんの声に臆病になったこと。