恐怖の下校時刻がやってきた。
 朝の登校時に降っていた雨は昼前には上がり、空はカラリと晴れ渡って、遠くでセミの声も聞こえる。通学路にできた沢山の水たまりに、密度の濃い雲が映っている。

 水たまりをバシャバシャ跳ね上げたり、迂回したりしながら、ランドセルをくっつけるようにわちゃわちゃと小さな塊を作って1年生たちが下校して行く。

(みんな楽しそうだな)
ほたるは小さくため息をついて、みんなとの距離を大きく開けてのっそり歩いていく。

 舗装されたアスファルトの道を右に折れ、やっと田んぼのあぜ道になった。ここから先に住む子供は、ほたるだけ。この長い田んぼ道を抜けた先にほたるの家はある。
 ほたるの家がある集落はここらの田んぼを所有する農家が住んでいて、ご近所はみんなお年寄りだ。
 あぜ道はぐっちゃぐちゃで、黄色い長靴に泥がくっついて歩きにくいけれど仲良くじゃれあう同級生の姿を見なくてすむと思うと、心は軽くなった。

 グエグエグエグエと、たっぷり水の張った田んぼの奥の方でカエルが鳴いていた。踏みしめた草からバッタがぴょんと跳ねて、ピンと緑色の稲に飛び移る。青い苗の匂いも、泥の匂いも、土手の脇に生える雑草の匂いも水路の水の流れも、全部ホッとする。

「自然の音はいい。自然の匂いはいい」と、ひいじいじのマネをして目を細めた時「おーい」と背中で子供の大声がした。

 びくりとして振り返ると、まっすぐなあぜ道のずっと向こうから、泥をビシャビシャ跳ね散らかしながら、こちらに向かって駆けてくる小学生が見えた。

「おーーーーーい」
 その子が大きくこちらに手を振っているので、ほたるは思わず周りを見回す。

(あたし以外、いない)
 その子はどんどん近づいてくる。速い。

(あっくん)
 近づいてくる男子は滝沢篤だった。でも、篤の家は反対方向のはず。

「ずっと、おーーいって、呼んでたのに、気づかない、んだもん」
 ほたるの目の前でぴたっと止まった篤は、派手に泥跳ねたズボンに両手を押し当て、はあはあ息をしていた。

「あのさ、聞きたいことがあるんだけど」
「え? あたし?」

「深山さんって、ホントに読書が好きなの?」
「な、なんで?」

「僕、ずっと気になってたんだよね。深山さん、いっつもクラス文庫読んでるけど、なんかつまんなそうな顔してるから。でも、クラスの女子に聞いても小川先生に聞いても、深山さんは読書好きなんだよっていうから、実際、どうなのかなぁって」
 篤はそんなことを聞くために、おしゃれなズボンを泥まみれにして、鼻の頭にも泥をつけてここまで走ってきたの?
「……それ聞いてどうするの?」

「どうって」
 クリッと大きな目がほたるを見て屈託なく笑う。

「もし、つまんないんだったらさ、明日から一緒に遊ぼうよ」

 思いがけない提案に、言葉が詰まって、頭が真っ白になった。篤はくったくなく笑いかけている。

「い、いいの?」
 ランドセルの肩ベルトを握り締め、恐る恐る聞くと、篤の顔が、ぱあっと輝く。

「あったりまえじゃん!」
 篤の大きな目が笑うと、ほっぺたのちょっと上あたりに、えくぼみたいなへこみができた。偶然、篤の後ろの空に虹を見つけた。土手に息づく生命の青い匂いが押し寄せてくる。夏の空を羽化したばかりの赤トンボが飛んでいた。

 その日、その瞬間の景色は、今もほたるの五感にくっきり焼きついている。