一瞬浮かんだいやな予感をかき消すようにカバンに手を入れてスマホを探すと、それはまるで意図して隠されていたかのようにカバンの奥底にしまわれていた。

 それに電源も切られていて、慌てて引っ張り出して愕然とする。


「これって……」


 さっきまでわたしが使っていたスマホではない。

 いやな予感がどんどん膨らんでいく。

 電源を入れて、すぐに日付を確認した。


 ―― 二〇二九年 八月二十四日 火曜日 ――


 ――嘘だ……こんなのきっと、悪い夢だ。

 ……これが本当なら、『今朝』の記憶から七年も経っている。

 もしかしてさっきのバスで眠っている間に高校生の頃の夢を見ていただけ、とでも言うのだろうか? それも残酷なまでにリアルな夢を。

 よくよく思い返せば、また別だけれど紛れもない『今朝』の記憶が頭の隅に隠れていた。

 わたしは確か朝早くにアパートを出て、電車を乗り継いで郊外に出た。

 そこでオムカレーを食べて、バスに乗って……あっ!


 ――お花は?


 しまった、お供え用に買ったお花をバスの中に置いてきてしまった。

 そういえばさっきの記憶では、わたしは慰霊碑に向かっていて……。

 またわからなくなる。

 頭の中で記憶の欠片が散らばっている。

 なぜ慰霊碑に向かっていたんだろう。

 そもそも慰霊碑って、一体なんの慰霊碑なんだ。


「ナーオ」


 黒猫がわたしを見て鳴いている。


「ナーオ、ナーオ!」


 鳴き声はどんどん大きくなる。


 吸い寄せられるように黒猫の瞳を見つめ返すと、バラバラだった記憶の欠片が徐々に形を成していく。


 湖に転落したバス……接触事故を起こして停車したバス……病院で眠る結弦……一緒に星を見た結弦……ひとりで食べたオムカレー……みんなと食べたオムカレー……ひとりで生きた七年……みんなと旅行で過ごした三日間……駅で出会った猫……駄菓子屋で出会った猫……。


 ――そうだ!


 ようやく首の違和感に気づいた。

 アクセサリーをつける習慣のないわたしが、首からなにかぶら下げている。

 右手をゆっくり首に持っていくと、指先が冷たくて丸いものに触れた。

 慌てて鏡で確認すると、そこには二十五歳のわたしが映し出されていて愕然とする。

 しかし、首筋には小さなガラス玉が光っていた。

 これは……。


「葵の……トンボ玉」


 自然とこぼれたひとり言は、まるで封印を解く魔法のように、わたしの意識に記憶の洪水を呼び寄せた。

 葵の言葉を思い出す。


『――きっとこれが、琴音さんを導いてくれる――』


 頭蓋の内側で記憶のパズルが猛スピードで解けていくと、瞬く間にすべての欠片が繋がった。

 慰霊碑からダム湖へと身を投げて意識を失くしたはずなのに、目を覚ましたわたしは七年前のバスの中へと時を遡っていた。

 目が覚めたときはなにがなんだかわからずに、ただ事故の記憶が現実に起こらないようにあがいた。

 その甲斐あってか、バスは転落しなかった。

 安心すると事故の記憶は夢だと思い込み、みんなと旅行を楽しんだ。

 広い温泉、豪華な夕食、結弦と見た海と星空、美輝と怜の涙、旅館のお手伝い、葵との出会い。

 夏祭りにヨーヨーを並べて虹を作り、笑顔であふれた屋台をまわり、万華鏡のような七色の花火を楽しんだ。

 そして、最後の朝に起きた結弦との仲違い。

 出会った人達のこともちゃんと覚えているし、首から下げているトンボ玉は間違いなく葵からもらったものだ。

 それがここに存在していることが、あの三日間を夢じゃなかったと裏付けている。

 行けなかったはずの旅行に、過去に戻って行くことができた。

 あれは幻なんかじゃない。

 紛れもない現実だった。


 でも――。


 また襲ってくる深い闇。

 流砂に捕らわれたようにもがけばもがくほど沈んでいくこの感情を、わたしはよく知っている。


 ――絶望だ。


 ほんの少し前まで隣に結弦がいた。

 美輝も怜も元気に笑っていた。

 嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに……。

 なぜ元の世界に戻されたのだろう?

 それ以前に、なぜ過去に戻っていたのだろう?

 心に荒れ地が広がっていく。

 見えない鎖がもう一度わたしを縛りつけようと、音を立てて忍び寄ってくる。

 いやだ、灰色の世界なんてもう見たくない。

 心に滲んだ黒いシミが徐々に広がっていき、またわたしから色を奪おうとしている。

 襲いかかってきた孤独の恐怖から逃がれるように、わたしはその場で声を上げて泣いた。