自宅から電車を乗り継いで六本木駅に到着すると変装用に持参したヤンキースのキャップを深く被り直す、土曜日の夕方、何の目的でうろついているのか分からない老若男女が、交差点の信号が変わるたびに入れ替わる。名刺の住所を確認するまでもなく六本木ヒルスは駅前にそびえ立っていた。その威圧感に気後れしたが、それ以上に強い覚悟をもって順平は歩きだした。

 グーグル、アップル、ゴールドマン・サックス、世界的な大企業がひしめくこのビルに宏美の会社、つまり白井の会社がある。名刺に書かれた企業名を探すとどうやら十五階のようだ、しかし当然ながら社員でも関係者でもない順平が侵入することはできない、社員証かゲストパスがなければゲートを通り抜ける事はできないのだ。

 しかし田舎者の順平でもそれくらいは知っていた、もとより正面から飛び込んでいく気はない、かといって何か作戦があるかと言われたら何もなかった。それでも返信のないラインを家で待ち続けるのは精神衛生上良くないと判断し、名探偵よろしく変装セット持参で白井の会社に偵察にきた、というわけだ。

 怪しまれないようにフラフラと歩きながら周りの人間を観察する、そもそも今日出社しているかどうかも分からないが、土曜日は出勤することが多いと言っていた宏美を信用する事にした、ラインの返信がないのも仕事をしているからに違いない。

 オフィスエントランスには如何にも仕事ができそうな男女が時間を惜しむように急ぎ足で闊歩している、その中を何の目的もない順平が一層浮いているように感じたが、おそらくすれ違う誰もが自分の事など何の気も止めていないだろうな、と思い直す。

 一時間、二時間、時間だけが刻々と過ぎていく、この日、何度めか分からないラインチェックをするが宏美に送ったメッセージは既読にすらならなかった。

 やはり騙されていた、脳裏に悪い予感がかすめる。安物の時計の針が十九時を指したところで馬鹿らしくなり帰る決心をした、キャップを脱いで髪を掻きむしっていると尻のポケットに入れたスマートフォンが震えた。慌てて引き抜いてラインをチェックする。

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 スマートフォンをその場に叩きつけたい感情をなんとか抑えて、駅に向かって歩き出した。

「順くん?」
 
 不意に後ろからかけられた声を聞いてなぜか涙が出てきた、もう自分は引き返すことができないのかもしれない。例え騙されていようが、命を狙われていようが、この女性を愛してしまったのだ。もしそれが白井の思惑なのであっても構わない、自分の気持ちに嘘はつけなかった。

「えっ、ちょっと、順くんどうしたの?」
 
 宏美は順平の前に回り込んで顔を覗き込む、子供のようにポロポロと涙を流す順平を訝しむ事もなく黙って乱れた頭を小さな子供にそうするように、よしよしと撫でた。

「荒川さん、お疲れ様でーす、あれ? 彼氏さんですか」

 ちょうど帰社が被った同僚が宏美に話しかける。

「まあね、お疲れ様」
「お疲れ様でーす」

 順平は何も言葉を発することができないでいた、なぜこんな所にいるのか、自分を監視しにきたのか、ストーカー、変質者、数え上げたら切りがない罵詈雑言を覚悟する。しかし彼女から発せられた言葉は「とりあえずうちにおいで、ね」だった。

 六本木駅から地下鉄で三つ、中目黒駅から十五分ほど歩いた場所に宏美が一人暮らしする瀟洒なマンションはあった、その間、ずっと無言の順平を問い詰めるでもなく、かといって無視するでもない絶妙な距離感でずっと腕を引いていってくれた。

「散らかってるけど、どうぞー」

「おじゃまします」

 蚊の鳴くような声でつぶやくとスニーカーを脱いで部屋に上がる、若い女性特有の甘い香りが鼻をつく。入ってすぐ短い廊下が伸びていて左手にキッチンがある、右手には扉が二つ、つきあたりの扉を開けると八畳程の部屋が広がっていた。

「適当にすわってね、ビールでいい?」

 パタパタとせわしなく動く宏美を目線だけで追いかける、彼女の言うように部屋は小説や漫画、女性誌のようなもので雑然とはしているものの清潔感のある部屋だった。散らばった雑誌をまとめて本棚に押し込んでいる。

「あ、順くん、うがいと手洗いしないと」

 子供を諭すように洗面所まで連れて行かれた。これがハンドソープ、こっちがうがい薬ね、と、それだけ説明すると部屋に戻っていった。

 目の前にある洗面台の鏡に髪はぼさぼさ、四十絡みの冴えない中年男が映っている。蛇口を捻り手を洗ってうがいした後に顔を冷水でバシャバシャと洗った。 壁に掛かってるタオルに顔を埋めると宏美の匂いがした。洗面所を出て静かに部屋に戻る。

「キャッ! ちょっと、順くん待って」

 ちょうどスカートを膝下までさげた宏美が慌てて背中を向けたが丸出しになった尻があらわになっていた、思わず目をそらして後ろを向いた。

「ご、ごめん」

「もー、すけべ、すけべー」

 まるで怒っていない声色が背中越しに聞こえてくる、中学生のように心臓をバクバクさせながら着替え終えるのを待つ。すると後ろから宏美が抱きついてくる。

「どした? なんかあった」  
 
 なんて説明していいか分からず「連絡がつかなかったから」とだけ、かろうじて答えた。

「あっ、そうだ」と言って弾かれたように順平の背中から離れる、振り返ると宏美がベッドのヘッドボードに充電器らしきケーブルに繋がれたスマートフォンを手に取り中身をチェックしている。  

「今日スマホ忘れちゃったの、仕事用は会社に置きっぱなしだから平気なんだけど、あ、やっぱり」

 そうか、返信がなかったのはそういう事か。と、安堵すると同時に顔から火が出そうなほど恥ずかしくなってきた。いい中年親父が、朝方に送ったラインの返信がないくらいで勤めている会社まで追いかけていく、いつ出てくるか分からない人間をエントランスで延々と待ち続ける様は滑稽を通り越して哀れにうつったに違いない。

「寂しかったんだぁー?、昨日会えなかったから」

 宏美はからかうように近づいてくると人差し指で順平の胸を二回つついた。
「うん、会いたかった」

 彼女の前ではなぜか恥も外聞もなく本音で話せてしまう、どんなことも包み込んでしまうような、何でも許してくれるような、年下にも関わらずまるで母親のような母性を感じた。

 白井が仕込んだ罠――。

 脳裏に浮かぶ最悪の可能性について考える、彼女が白井の指示で自分をたぶらかす理由は一つしかない。宏美に夢中になればなるほど、深みに嵌れば嵌るほど妻を殺さなくてはならなくなる。現に本気で妻を殺そうと思案したのは彼女と出会ってからだった。

 そしてその推理が正しいとしたら十中八九――。

 彼女は白井の愛人だ。
 だとすれば白井のイマイチ弱かった殺害動機にも現実味が帯びてくる、これだけの女だ。なんとしても離婚して一緒になりたいと考えても不思議ではない、そして彼女のパートナーとして自分よりも白井の方が数倍ふさわしいことは火を見るより明らかだ。

 そして、それだと今度は理沙の推理が破綻する、子供を奪うために白井夫妻が動いているなら宏美が愛人だと矛盾してしまう。

 だめだ、。結局わからないという名の振り出しに戻ってしまう。

「嬉しいな、順くんみたいにストレートに言ってくれる人いなかったから……」

 くっ、それは白井か、白井直也なのか。

「あっ、順くんご飯は?」

 そう言えば朝から何も食べていないことに気がついた、不思議なもので気がつくと一気にお腹が空いてくる。

「お腹すいた……」 

 なんて間抜けな、これじゃあ本当に子供だ。しかし彼女はにっこりと微笑むと「ビール飲んでまってて」と言ってキッチンに向かった。 

 長方形のテーブルの前で胡座をかいてビールのプルタブを開けた、空きっ腹に流し込むと胃が熱くなっていくのを感じた。一日中仕事をしてきて疲れているはずの宏美が、自分なんかの為に料理を作っている。とても演技には思えなかった。

 彼女に相談してみてはどうだろうか――。

 それで何かが解決するとは思えないが、少なくとも反応を見れば何か分かるのではないか。騙しているにしても、そうじゃないにしても、今の膠着状態を脱することができるかもしれない。

 いや、と考えを改める。楽になりたいだけだ。
 もしも宏美が自分を騙そうと、今までが演技なのであればこれ以上、傷が深くなる前に別れたい。

「はい、とりあえずこれ食べててね、あ、次もビールでいい? 焼酎もあるよ」

「ビールもらえるかな」

 考えがまったくまとまらない内にテーブルにはつまみが並んでいく、酒好きな彼女らしい渋いラインナップ、それとも自分がいつ家に来ても良いように食材を用意していた、と考えるのは楽観的すぎるか。順平は二本目のビールに手を伸ばした。

「順くん、これ、セットして」

 カセットコンロを抱えた宏美がボンベと一緒に順平に手渡した、どうやら鍋でも出てくるのだろうか。 

「はいはい、熱いのとおるよー」

 グツグツと湯気の立つ鍋は真っ赤に染まっていた、白菜や、豚肉、ニラ、えのき、豆腐にアサリ。

「キムチ鍋、食べれる?」 

 宏美はそう言って順平の横に座って、ビールのプルタブを引いた。乾杯と言って缶を合わせる。

「うん、大好物」

 結婚して間もない頃、在日朝鮮人の郷土料理なのか知らないが妻がよく作ってくれた、それまで鍋といえばシンプルな醤油ベースの鍋しか食べたことがなかったが、初めて食べたキムチ鍋は今までの鍋ライフをっくり返すほど美味かった、それからは鍋といえばキムチ鍋。むろん彼女がそんな事を知っているはずもないが。

「良かったー、取ってあげるね」

 無音の部屋の中で、鍋がグツグツと煮立つ音がやけに大きく聞こえてくる、何か話さなければと思うほどに話題が思いつかなかった、代わりに脳裏をよぎるのは宏美が自分を騙しているのかどうか、それだけだった。

「ありがとう」

 器を受け取ると沈黙を破るように鍋をかき込んだ。

「あっつ!」
「もー、熱いに決まってるでしょ、順くんは子供みたいねえ」

 こんな会話をしながら夕食を摂るのが夢だった、愛する女性とじゃれ合いながら食卓を囲む。それをからかうように冷やかす娘たち。そんな家庭を夢見ていた。いつからだろう、すべてを諦めたのは。

 妻が毎日つまらなそうに夕食を出すようになってから? 

 子供が次々に生まれ妻がヒステリックになってから? 

 娘が奇声を発するようになり発達障害と診断されてから?

 どのみち新田家はもう修復不可能なほどに破綻していて、順平が望む明るい食卓など望むべくもなかった。
  
「結婚しないか?」

 気がつくとプロポーズしていた、日本全国で毎日のように行われているプロポーズの中でも最低の部類に入るであろうそれは、順平の口から発せられると静かな部屋に反響してキムチ鍋に吸い込まれていった。

「え」

 なにを期待していたんだろう、よもや「嬉しい」などと抱きついてくる未来でも夢見ていたというのか。彼女はそれ以上なにも聞いてこなかった。




「ただいま」

 自宅の玄関を開けると、妻がバタバタ駆け寄ってきた。珍しくお出迎えかと思ったが当然違う。

「ちょっと、遅いじゃない、どこいってたのよ。作戦会議するってラインしたでしょ、見てないの」 

「作戦会議?」

「白井夫婦を返り討ちにする作戦よ、当たり前でしょ」

 順平は聞こえないようにため息を吐いた。

「悪いけど今度にしてくれ、疲れてるんだ」
 今はなにも考えたくない。

「なにいってるのよ、グズグズしてたらこっちが殺されちゃうわよ」 

 殺し合う家族――。

 こんな家庭を作る為に結婚したんじゃない。
 
「お前は信用できるのか?」

 自分でも恐ろしいほど冷たい声がでると真っ暗な玄関に響き渡る。呆然と立ち尽くす妻の横を順平は静かに通り過ぎた。