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毎日、家に帰るのが嫌だった。



その日の放課後も、アパート1階の郵便受けまでは来られたものの、そこから敷地内に入ることを拒む足。
どうせまた、喧嘩して怒鳴られる。そう思うと憂鬱だった。



「………あ、こんにちは」



そこに立ち尽くしていると、後ろから聞こえた声。
この軽い声は、また高村だ。

顔を向ける。
彼と視線が交わる瞬間は、いつだって心のどこか知らないところが動くような感覚があった。



「この前のあの夜は、あんまり遅くならず帰りましたか」

『………だから。あなたに関係ないですよね、それって』



1番上の踊り場で鉢合わせたあの夜のこと。
突き放してるんだよと、わからせるように語気を強める。

高村は一瞬、怯んだように見えたけれど、その後、なぜか急に持っていたレジ袋を漁り始めた。



その背中には、細身な身体には不釣り合いな大きなリュックサック。
大学の帰りだろうか。



「……あった…。あのこれ、良かったら食べてみませんか」



そのまま彼は不意に、小さな袋に入った飴玉を差し出してくる。


……いや、私のこと何歳だと思ってんの。


子ども扱いだ。また彼を睨みつける。
それでも足りなくて、ぷいっと顔を背け、存在を視界から追い出した。



「…あ、ごめんなさい」



小さい声。謝るくらいなら最初からしなければいいのに。と、私は彼を無視し続ける。だけど。



「……じゃあラムネだったら、食べたいですか」



柔らかく耳に響く声。
思わず視線を動かすと、今度はありふれたラムネ菓子のボトルがこちらに差し出されている。しかも未開封。



別に、飴が嫌だったわけじゃないし。
どこまで子ども扱いすんの。



呆れて、腹が立って。
今度こそ傷つけてやろうと息を吸い、高村の顔を真正面から見上げた、その瞬間。


目が合ってじわりと急に、視界が歪んだ。



別に高村に何か言われたわけじゃない、その表情がどこか特別いつもと違ったわけでもない。
ただその瞳が暖かくて、優しくて、凍っていた感情が溶け出す。私の中で何かがぷつりと切れた。



気がついたら私は、声をあげて泣いていた。



次から次へと溢れ続ける涙。自分でも自分がわからない。
唐突に、耐え忍んできたたくさんの痛みが、波のように押し寄せてくる感覚。



「え、えぇ、ごめん。ラムネも微妙だった?」



目の前の高村は、突然のことにたじろいでいる。
そうじゃないって、馬鹿じゃないの。
そう言い返そうにも、嗚咽が邪魔をする。堰を切ったように、溢れ続ける。



高村は、そんな私が泣き止むまでなぜか、そこに居座り続けていた。