〇料亭内の庭園(7月末の土曜日)



庭園にある東屋で、花は創一郎と並んで座っている。



花「服まで用意していただいて申し訳ありません」

創一郎「着物だと今日は暑くてつらかったでしょう」



シンプルなデザインだが質の良い高級ブランド『Az』のノースリーブワンピースを着ている花。

足元は同じブランドのローヒールサンダル。



花「すぐには無理ですが、代金は必ずお支払いしますので」



それ以上言わなくていいよ、と意味する感じに創一郎が人差し指で花の唇へ触れた。



創一郎「僕が花さんに着て欲しかっただけですから。プレゼントさせてください」



頬を染めた花の心臓がドキッと跳ねる。



花(二時間前あんなに気分が悪かったのが、嘘みたい)





〇(回想)料亭内の『桜の間』(二時間前)



創一郎「相澤創一郎と申します。またお会いできて光栄です」



涙ぐむ花に優しい眼差しで微笑んだ創一郎だが、すぐに心配そうな表情へと変わる。



創一郎「体調が悪そうですね」

花「ぇ?」



創一郎が指摘する通り、花の顔色は悪かった。



創一郎「すぐに部屋を用意してもらいましょう。横になった方がいい」


(回想終了)





〇再び料亭内の庭園(冒頭シーンの続き)



庭園内にある東屋の長椅子で、花と並んで座り景色を眺めている創一郎。

花はそんな創一郎の横顔を遠慮がちに見つめている。



花(優しくて本当に、素敵な人……)



その視線に気が付いた創一郎が、花の方を見てフッと口元を緩めた。

無意識にパッと視線を逸らして俯く花は、頬だけでなく耳まで真っ赤。



創一郎「花さん?」

花「あの、先ほど私、夢を見てしまって」

創一郎「夢?どんな?」

花「相澤さんが私と婚約するなんておっしゃる、あり得ない夢です。だからなんだか恥ずかしくて……」



花(夢とはいえ、私ってばなんて図々しいんだろう」



創一郎が、そっと指の背で花の頬に触れた。

ドキッと胸が弾み、花は反射的に創一郎の方を向く。



創一郎「夢じゃないよ、花さん」

花「さっきのは、夢じゃ、ない……?」





〇(再び回想)料亭内の特別室



振袖を脱いで長襦袢姿になった花が、頭を濡れタオルで冷やしながら用意された布団で横になっている。

隣の部屋では創一郎と継母が、立派な座卓を挟んで向き合って座っていた。

隣の部屋との間には衝立が置いてあるため創一郎と継母の姿はよく見えないが、襖は開いているため花の所にもふたりの声が聞こえてくる。



継母「どういう事ですか」

創一郎「交渉が成立しただけですよ」

継母「交渉?」

創一郎「西園田さんにこちらの写真を見せたら、お見合いを辞退していただけました」



創一郎は座卓の上に封筒を差し出し、どうぞ、と促すように継母に手の平を向けた。

封筒を手にする継母を見つめる創一郎は、ゾクリと背筋が冷たくなるような厳しい目をしている。



創一郎「彼はずいぶん奔放な方のようだ」



封筒の中から数枚の写真を取り出した継母の顔色がサァッと青く変わる。

写真には西園田が女性の肩を組んでホテルに入っていく場面が。



創一郎「この1週間だけで、2名の女性と関係を持っている。そのうちのひとりは既婚者の方のようです。この写真が表沙汰になったら、西園田さんはどうなるでしょうね」



継母から写真を受け取り、再び封筒へ入れながら創一郎は言葉を続ける。



創一郎「そうそう、あなたは病院の経営から退いた方がいい」

継母「は……?」



訝しがる表情の継母。



創一郎「病院のお金の流れについても少し調べさせていただきました」



創一郎は口角を少し上げて笑った。

花に対する笑顔の時と違って、継母へ向ける目は少しも笑っていない。



創一郎「病院再建に実績がある者の心当たりがありますから、何名か紹介しましょう」



革製の小さなケースから取り出した紙を、スッと創一郎が座卓の上に置いた。



創一郎「今後の連絡については、会社を通してください」



創一郎が置いたのは名刺で、『Az 取締役副社長 相澤創一郎』の文字が。



継母「『Az』って、まさか……」



チラリと自分のバッグに視線を向ける継母。

花は布団で横になったまま、アルファベットのAとZを重ね合わせたようなロゴが入った継母のバッグを頭に思い浮かべる。



花(『Az』って確か、継母が自慢していた高級バッグのブランド……?)



『Az』は世界的な高級ファッションブランドで、扱う品はバッグや服だけでなく、化粧品や香水、アクセサリーや時計など幅広い。

海外のセレブが身につけて話題になる事も多いため、高級品に疎い花でもその凄さは知っている。



継母「あなたそこの副社長なの?」



創一郎は肯定するように笑みを浮かべて頷いた。



創一郎「私と花さんを婚約させてください。悪い話では無いはずですよ」

継母「病院を手に入れる事が目的なの?それなら私にはもう一人、麗羅という娘がいて……」

創一郎「私が望んでいるのは病院でも麗羅さんでもなく、花さんです」



花(望んでいる?なぜ……)



そう考えたのは継母も同じようだった。



継母「どうしてあの子なの?」

創一郎「それをあなたにお伝えする必要がありますか?私が欲しい答えは、婚約を認めるか否かです」



否定を許さぬような鋭い視線を継母へ向ける創一郎。

継母は怯えたようにビクッと震え、悔しそうに視線を逸らす。



継母「認めるわよ、認めればいいんでしょう」



ありがとうございます、と微笑むと創一郎は部屋の出入り口を手で示した。



創一郎「花さんには私が付き添います。どうぞ先にお引き取りください」



継母が部屋から出て行くと、創一郎はスマホを取り出しどこかへ電話をかけた。

先ほどまでと違い、厳しさは無く穏やかな創一郎の声。



創一郎「源(げん)、大至急用意してもらいたい物があるんだ」



花(相澤さんの声、心地いい……)



創一郎の声を聞いているうちに花は安心したように、スゥ……と眠りへ落ちていった。

(回想終了)





〇再び料亭内の庭園にある東屋のシーンに戻る



何かを心配するような表情で、花の顔を覗き込む創一郎。



創一郎「僕と婚約するのは、嫌ですか?」



シュン……とする感じが仔犬のように見えて、花の胸がキュンとときめく。



花「婚約なんて……どうして、私にそこまでしてくれるんですか」



創一郎は困ったような笑みを浮かべた。



創一郎「相澤慶一郎の事はご存知ですね?」

花「10年くらい前まで……隣のお屋敷に住んでいらっしゃいました」

創一郎「僕は相澤慶一郎の孫です。フランスで祖父と一緒に暮らしていました」



花(相澤のお爺様の……?)



ハッとした表情になる花。



花「お爺様はお元気ですか?二か月くらい手紙が来なくて、心配していたんです」



花(フランスへ行ってからも月に一度は必ず、手紙が届いていたのに……)



そんな花を見て、申し訳なさそうな表情になった創一郎。



創一郎「実は前に会った日は、祖父の事をお伝えするつもりで花さんの家へ向かう途中でした」

花「お爺様の事で、私の家へ?」

創一郎「祖父は二か月前に亡くなったんです。外出先で倒れて、本当に急なことでした」

花「ぇ……」

創一郎「自分にも人にも厳しい祖父でしたが、花さんは特別だったようです。とても大切に想っていました」



花は、優しい眼をした相澤慶一郎の穏やかな笑顔を思い出す。



花(相澤のお爺様が……)



堪えきれず、花の目からポロポロ涙が零れていく。

創一郎はハンカチを取り出すと、花の目尻にそっとあてた。



創一郎「だから僕が、祖父の代わりに花さんを守りたいんです」



花は創一郎の手をそっと押し戻しながら、ゆっくりと首を横に振る。



花「私の事よりも、ご自分の事を一番に考えてください。お爺様を亡くされて、相澤さんの方が大変なんですから」



涙を零しながら訴える花を見て、創一郎は思わず花を抱きしめてしまう。



創一郎「花さんはやっぱり優しいね。どうか僕と婚約してください」



創一郎の腕の中で顔を真っ赤にさせた花は、我に返ったようにハッとしたあと、ブンブン顔を横に振った。



花「こ、婚約しても相澤さんには、何もメリットがないじゃないですか」

創一郎「メリット、ですか……」



片手で花を抱きしめながらもう片方の手を軽く握って自分の顎に当てた創一郎は、視線を少し上に向け思考をめぐらせている。



創一郎「婚約していただけると、女性からの誘いを断れるので助かります」



花(……相澤さんはモテそうだから、決まった相手がいないと断るのも大変そう)



創一郎の腕の中で、たくさんの女性から言い寄られる創一郎の姿を想像する花。

そして花は、ハッと何か閃いたような顔をする。

創一郎から距離をとるように両手で彼の胸板を押し、バッと顔を上げた。



花「そっか。婚約って、婚約者のフリをするって事だったんですね」



カチッ、と時計が止まったように創一郎の表情が固まる。



花(私との婚約は、女避けのための口実なんだ)



創一郎「……そうじゃないよって言ったら?」

花「ダメです、恐れ多くて婚約なんてできません」

創一郎「それなら今は、フリって事にしておこうかな」

花「ぇ、今は、って?ひゃッ!?」



創一郎は花を自分の膝にのせると、ぎゅッと花の事を抱きしめた。



創一郎「愛しい花さん、僕と婚約中のフリをすれば、他の人と望まない結婚をさせられることもないですよ」



花の額にチュッと触れるだけのキスをする創一郎。



創一郎「だから僕と婚約してください」



花(婚約のフリ……なのにドキドキしちゃう)



創一郎は花の顎に指を添えると、クイッと自分の方を向かせた。



創一郎「返事は?」

花「は、はい……よろしくお願いします」

創一郎「よかった。こちらこそよろしく」



花の返事を聞いて、創一郎は嬉しそうに目を細める。



創一郎「体調が大丈夫そうならそろそろ帰るけど、車まで歩けるかな?」

花「ぁ、送っていただかなくて大丈夫です、ひとりで帰れますから」

創一郎「同じ家に帰るのに?」



花(同じ家に???)



花の頭の中に、たくさんの疑問符が浮かぶ。



創一郎「今日から一緒に暮らすよ、婚約者だからね」

花「いっ?……一緒!?」

創一郎「お互いの事をよく知らないと、偽装婚約じゃないかと疑われてしまうでしょう?」



悪戯っぽい笑みを花に向ける創一郎。

パクパクと口を開くけれど、驚きのあまり言葉が出てこない花。



花(婚約するフリって、同居までするんですか――!?)