僕はデートの日には、朝にも必ずシャワーを浴びる。

 会社から帰ればすぐに風呂に入るし、先輩に会える仕事の日ももちろん熱めの朝シャワーを浴びる。
 気持ちがしゃきっとするし、何よりも理由は――。

「城ヶ崎君、なんかいい匂いがする」

 僕が後ろから抱きしめた野坂先輩が、恥ずかしそうにしながら囁いた。

 これを言われたくて、僕は念入りに身だしなみを整えてると言っても過言ではない。

 ゆずのオーガニックのボディーシャンプーを愛用中です。
 な・ぜ・な・ら〜、野坂先輩が果物は蜜柑とかグレープフルーツとか柑橘がリラックスが出来て好きだと前に聞いたから。

 うんうん。使ってて良かった。

「城ヶ崎君、なんか癒やされる」
「……嬉しいなあ。先輩、僕の香りで癒やされてるの?」
「きゃっ。あわわっ。は、離れて。城ヶ崎君、私達付き合ってもないのに、こんなのイケないよ」
「どうして? もぉ〜、なんでそんなに頑ななんです? 先輩は僕に抱きしめられるの、……イヤですか?」

 離さないよ、先輩。
 耳元にそっと語りかけると、先輩がびくっと体を震わす。

「僕の声に感じてるんじゃないですか? 先輩。今夜こそ素直になっちゃいましょう。ねっ?」
「自分の気持ちに……?」
「そうです」
「じょ、城ヶ崎君の温もりがあったかくて……。いい匂いがして。私、クラクラする……の」

 腕の中の先輩が脱力するのが僕には分かった。
 心を許してくれてるって分かる。

「先輩、今日も可愛いですね」
「……やだ、恥ずかしいよ。甘すぎ、城ヶ崎君」

 僕に体を預けてくる先輩の体が熱を帯びてきてる。

 うわあっ、よっしゃ!
 きっと今日こそ正式にお付き合いしてもらえるのでは!?

「先輩、好きです」
「城ヶ崎君……、わ、私」

 そうです! 野坂先輩。「私も」って言っちゃいましょう。
 定時すぎのオフィスには僕と野坂先輩の二人っきりだ。
 ダメ押しには、言葉が良いのか、それともキスかな?

「野坂先輩の方こそ、いい匂いがします」

 シャンプーの香りかな?
 いい匂い。
 この香りは薔薇だろうか。
 甘さと優雅さを兼ね備えた野坂先輩にぴったりだと思う。
 
 僕は野坂先輩の温もりと香りで幸せな気持ちに包まれていた。

 ――その時!

「野坂さ〜ん?」

 こ、この声は!

 ドアの方から、落ち着いた低めのイケメンボイスが聞こえて、野坂先輩は慌てて僕の腕の中からするりと抜け出した。

 開いたドアから覗いたのは、最近就任した常盤社長《ときわしゃちょう》だった。
 スラリとした長身、力のある瞳にかかる眼鏡が醸し出した知的さをさらに演出してる。
 くーっ、悔しいけど、常盤社長は男の目から見てもハンサムだ。

「野坂さん、まだいる?」
「あっ、はっ、はいっ! います。常盤社長」

 も〜っ、良いところで邪魔が入ったぞ。

「城ヶ崎君もいたのか」

 なんだ? 常盤社長はさ、僕がいたのが残念そうな顔だな。

「常盤社長、野坂先輩だけじゃなく僕も残業しているので、がっかりしたんですか?」
「まさか。そんなことあるわけないじゃないか。どうだろう、君達二人とも、私と一緒にこれから食事でも行かないか?」
「社長と私と城ヶ崎君でお食事ですか?」

 むむむっ。なんか嫌な予感がするぞ。
 この展開はまずくないか?
 常盤社長ってまさか、まさか野坂先輩を狙ってんの?
 あーっ、絶対に狙ってる!
 今、野坂先輩と目が合って、……視線が絡んで常盤社長は顔を赤らめたぞ。
 これは冗談じゃない展開になりそうだ。
 僕は気を引き締め、警戒をする。

「もちろん私の奢りだ。部下を労うのも社長の仕事の一つだと思っているからね。気がすすまなかったら、また今度でも私は構わないのだけど、ぜひ野坂さんとは話してみたくてね」

 大人の余裕さが漂う。
 強引さはないけど、自分に興味を持ってくれているんだとあんに伝えているではないか。
 仕事が出来ると噂の有能で格好いいイケメン社長に誘われたら、悪い気がしないよね。
 どんな女子社員だってさ。そう、男子社員ですらも。

 断る選択肢はないように感じた。

 ――がっ!
 ここで奇跡が起きる。

「今夜は先約がありまして……。実は城ヶ崎君とリサーチを兼ねて先日オープンしたうちのお店を見て来ようって話してたんです。すいません、常盤社長。また次の機会に……」

 せんぱ〜い!!
 好きです、先輩。
 常盤社長の誘いをかわすとは、流石です!

「ねっ? 城ヶ崎君」
「あっ、はい」

 これは嘘じゃない。
 そうでしたよね、確かに御飯に行く約束はしてたもん、僕達。
 今夜って日にちは決めてなかったけど。

「ああ、ちょうど良かった。私も直接行って味わいたいと思っていたんだ。ターゲットの客層を若者に合わせた気兼ねなく行けるカジュアルイタリアンだったね。だが、開発当初の味は守れているだろうか。抜き打ちで行こうってことかい? 熱心だね。感心だよ」

 その店は横浜の埠頭近くでロケーションはバッチリだったが、三人でなんて行きたくない。

 だって僕は野坂先輩と二人きりで行きたかったんだ。
 デートしたかったのに〜ぃ!

 お邪魔虫、お邪魔な常盤社長が無駄にイケメンでさらに焦るし、腹が立ってきた。

   🌹

 僕と野坂先輩は結局断りきれずに、常盤社長の運転手つきの外車で、御飯に行くことになった。

 着いたイタリアンの店の、四人が座れる個室に通された。
 野坂先輩は化粧室に向かうと、部屋にはしばし常盤社長と僕だけになる。

「城ヶ崎君、直球で聞くよ。私はプライベートでは回りくどいのはキライでね」
「はあ、何を聞くんですか? まあ、質問の中身はだいたい察しがついていますけど」
「それは話が早い。君と野坂さんは付き合っているのかな?」

 やっぱり! やっぱりだ。
 僕の勘は的中したよ。
 常盤社長が野坂先輩に気があるのはバレバレだ。

「職権乱用ですか? いくら社長だからって社員のプライベートに突っ込むべきではないと思いますけど」
「言うねえ。《《俺》》だって男だから彼女に興味があるんだ。それに今は俺もプライベートだよ、城ヶ崎君」

 常盤社長、自分のこと「私」呼びから「俺」呼びになっている。
 公私で切り替えるために、そうしてんのか。

「プライベートか。じゃあ話し方とか無礼講で良いですか?」
「構わないよ」
「野坂先輩のこと狙ってんの? 僕はあなたに絶対に渡さない」
「野坂さんはとても魅力的だ。素敵な彼女を俺はぜひ伴侶にしたいと思っている」

 はあっ?
 野坂先輩は僕の恋人になる人だ。

 こうなったら常盤社長の宣戦布告を受けてやろうじゃないか。

「城ヶ崎君《《も》》野坂さんのことが好きなことは分かっていたさ。ライバル同士、腹を割ってみようじゃないか」
「誰が腹を割るか」
「まずは、だ。俺は第一に、野坂さんに未だにちょっかいをかけている忌々しい元カレの中山君を撃退しようと思うんだ」
「――なっ! まさか左遷とか汚い手を使うんじゃ」

 常盤社長はニヤッと笑った。
 その笑いはなにを示すんだ?

「俺は汚い手は好まないんでね。真っ向勝負させてもらうさ」
「真っ向勝負って、なんだよ」
「中山君に俺は決闘を申し込む。――と、その前に野坂さんには正式に結婚を前提としたお付き合いをしたいって告白するつもりだ」

 なっ、なんなんだ。
 この人、潔い。
 男らしいじゃないか……って、丸め込まれるわけにはいかない。

「どんな決闘をするのか知らないけど。そもそも貴男はバツイチでしょうが。しかもこの間離婚したばかりって風の噂に聞いたけど? 少しは色恋沙汰に期間を開けようとかないわけ?」
「俺は過ちから学ぶタイプでね。失敗は二度としない」

 目の前の常盤社長は自信満々だが、僕はぜぇったいにこの人には負けない。

 ニヤつく常盤社長と睨み合う僕とは、一触即発火花バチバチだ。

 野坂先輩が化粧室から戻って来て、僕の隣りに座った時は勝ったと思った。
 そんな些細なことだけど、先輩は常盤社長よりも僕に気を許してくれているんだって自信になる。

「あの、何かありましたか? 常盤社長と城ヶ崎君、ちょっと空気がピリついてません?」
「そんなことないです」
「いいや、ちっともだよ。俺と城ヶ崎君は楽しくお喋りしていたさ」
「……? そうですか? お料理楽しみですね」

 野坂先輩がいるから食事は一人より数千倍も美味しく感じる。
 しかもドキドキウキウキな気持ちを貰えてしまう贅沢な時間だ。

 今度は必ず僕は野坂先輩と二人きりで過ごしてやるからな。

 ……今夜は存外、常盤社長がいても楽しい食事会になったが、相手は野坂先輩をめぐる恋のライバルだ。

 明日からも野坂先輩にアタックしてかないと、先輩を取られてしまう。

 僕はこれまで以上に野坂先輩を甘く甘く攻めていこうと気合を入れていた。