「ユーリ・エリシュカ! 僕は君との婚約破棄をする! そしてレイン・オーヴァ、彼と新たに婚約を交わす! 未来の王配はレインだ!」
 
 ざわ……。
 と、パーティー会場が騒めく。
 まあ、そうだろう。
 この国『エンディエラ王国』は同性婚が認められている。
 なんなら『神の祝福』を得られれば男でも妊娠出産が可能。
 女性の人口は全体の三割と非常に少なく、基本的に男性同士で結婚して子孫を残す。
 
 そう、つまりこの世界は――BLゲームの世界である。

 フッ、と思わず笑ってしまった。
 レイン・オーヴァは前世で私が心の支えにしていたBLゲーム『薔薇の香りに誘われて……』の主人公。
 今その主人公レインの方を抱くのは王太子オリガ・エンディエラは攻略対象の一人。
 私、ユーリ・エリシュカは侯爵令嬢。
 貴重な女性であるが、BLゲームのご令嬢なんて腐女子プレイヤーに無条件で嫌われる悪役令嬢。
 婚約破棄なんて全攻略対象全員に突きつけられる。
 なんで全攻略対象に私が婚約破棄を突きつけられるからって言われれば――貴重な女性である侯爵令嬢の私は攻略対象全員と婚約しているのだ。
 意味がわからないでしょ?
 理屈としては『貴重な女性だから』有力貴族の嫡子と婚約しているのよ。
 子どもは男でも妊娠出産できるけど、『神の祝福』が得られなければ普通の男性と変わらない。
 しかも確実に妊娠させるには『神の祝福』により三ヶ月に一度来る発情期中に種付けしなければならない。
 ――まあ、つまりこの『薔薇の香りに誘われて……』というBLゲームで起こる『神の祝福』とは、普通の男をオメガの男にするという――半分オメガバース設定の世界なのだ。
 なので、お家存続のために()()に子どもを妊娠出産できる女性との婚姻は、王侯貴族にとって必須。
 はあ、と溜息を吐く。
 建国祭のパーティーの最中に、悪役令嬢の私に婚約破棄。
 ストーリー通りだ。
 いや、なんかもう……ついさっき前世の記憶を取り戻した私には悪役令嬢ユーリ・エリシュカのように振る舞えない。
 
「かしこまりましたわ。他にわたくしと婚約破棄されたい方はおられます? 全員まとめて婚約破棄いたしましょう」
「……ずいぶん物分かりがいいな?」
「愛人ではなく、わたくしと婚約破棄してまで独占したい方なのでしょう? どうせ義務での婚約ですもの。では」
「待て! 話は終わっていない」
 
 別の攻略対象が現れる。
 あれは騎士団長の息子と宰相の息子と隣国のオリガとレインの従者たち。
 あー、推したちが勢揃い。
 よかったな、みんなのストーリー……レインとくんずほぐれず……ハーレムルートの五人の攻め×レインの乱交エンド涙が出るほどドスケベ最高でした。
 心の中で手を合わせ、拝む。
 マジ、神ゲーでした。
 
「レインに嫌がらせをしていたそうだな」
「その件に関しては申し訳ありません。後日お詫びの品を家から届けさせますわ。全面的に嫉妬に駆られて嫌がらせをしたわたくしが悪かったことは認めます。自主退学いたしますのでお許しください」
「……み、認めるのか……? 素直に? 君が?」
「どうしたんだ?」
「なにかの罠か?」
「体調が悪いのでしょうか……?」
 
 ひどい言われようである。
 しかし、女性として産まれてチヤホヤされ蝶よ花よと育てられ、徹底的に甘やかされで生きてきたのだ。
 貴重な女性なのだから大事にされるのは当たり前、という思考の悪役令嬢――それがユーリ・エリシュカ。
 自分の非を認め、謝るような女の子ではない。
 
「ご無事に『神の祝福』を得られることを、陰ながらお祈り申し上げます」
 
 お辞儀をして、パーティー会場を去ろうとする。
 そんな私に手を差し出してくれた石竹色のふわふわ髪の美青年と、濃紺の長髪の超美形。
 先程とは別種のざわざわが会場を包む。
 
「誰だ、あの素敵な方々は」
「見たことのない方々だな」
「う、美しすぎる」
「どこのご令息だ」
 
 その手を取り、会場を出た。
 人気(ひとけ)のない庭へと出ると、二人とも私の手を離してにこりと微笑んでくれる。
 プルプルと震える私は、そのまま二人を振り返った。
 
「BL世界の悪役令嬢とか終わってますー!」
「それは本当そうだねぇ」
「本当に生き返れるんですか!? 元の世界に帰れるんですか!? 帰れるって、生き返るって言いましたよね!? 今すぐ帰してください今すぐ!」
「落ち着いてください。すぐには無理です。先程も説明しましたが、僕たちはあなたを餌に釣られた側です。ですから釣った者と接触して理由を聞かないといけません」
「異界の人間を殺して魂を誘拐してる時点で俺たちと反りが合わないのは間違いないしー、見つけたらとりあえず斬り捨てよっか☆」
「トリシェさん……」
 
 石竹色のふわふわ髪の美青年は、花ノ宮明人(はなのみやあきひと)という神様。
 そしてこちらの物騒なことを言う濃紺の長髪の超美形はトリシェ・サルバトーレという神様。
 そう、どちらも神様と名乗った。
 でもこのBLゲーム世界の神様ではなく、私がトラックで轢かれた前世――地球に住んでいる神様。
 びっくりしたわ。
 突然『薔薇の香りに誘われて……』の悪役令嬢ユーリ・エリシュカになっていると思ったら、私を助けようとしてくれた神様二人までこの世界に転生していたのだから。
 そう……お二人は私を……助けてくれようとした。
 でも、色々あってお二人は神として弱体化している。
 それで力が足りなくて――私をこの世界に転生させてしまった、と聞いた。
 しかし驚いたことに神様お二人も受肉して転生している。
 見たところ『薔薇の香りに誘われて……』の攻略対象ではない。
 お二人とも顔を見合わせて「わー、最盛期の頃の姿で受肉してる」「本当ですね」と言っていた。
 どっちも超絶イケメンで目が幸福。
 しかもそのおかげで、私は元の世界に帰って生き返ることができるかもしれない、と言われた。
 けれど――。
 
「釣った者……私を殺してこの世界に連れてきた“なにか”ですよね」
「そうだね。俺と明人を両方掴んで連れてきたってことは、なにか治してほしいのかな?」
「助けを求められると断れないので、できればそういうお願いだと嬉しいですね」
「明人は優しすぎでしょー。俺はやだなー。最盛期の時の権能って強すぎてしんどいもーん」
 
 私を生き返らせるというだけあり、お二人の能力は治癒に特化している、らしい。
 治すのは得意、と二人揃ってニコニコ笑顔で言っていた。
 明人様は物腰も柔らかく言葉遣いも丁寧だし、安心感があって説得力がある。
 でも、トリシェ様は明人様以上の治癒系権能をお持ちなんだとか。
 触れれば自動で治してしまうと言っていた。
 だからだろう、お二人を釣ったのはこの世界でなにかを治してほしいからなのでは、という予想。
 ……助けを求めてたにしてももう少しやりようはなかったのか。
 
「ああ、トリシェさんは――そうですよね。しかし、目立つ場に出れば向こうから接触してくると思ったのですけれど……誰も近づいてきませんね」
「本当だよ。早く帰りたいんだよこちとら。夜のネットアニメ始まっちゃうじゃん」
「染まりましたよねぇ……あなたも……」
「神様ってネットアニメ観るんですね」
「弱体化しまくって暇なんだもん」
「僕は仕事の打ち合わせがあったので早く帰りたいです。確定申告の準備もあるので、本当に早くお願いしたいですね。あんまり遅くなるようならこちらから探し出して、しばき上げましょうか」
「え」
 
 色々生々しいな。
 とか思ってたら明人様もなかなかに過激……!
 
「僕は探索系も得意なので、無駄なかくれんぼはしない方がお利口さんなんですよ」
 
 とつけ加えた。笑顔で。
 あ、明人様って実は腹黒系か……!?
 
「――その必要はなさそうかな?」
「おや、ようやくですか?」
 
 そう言って二人が東家の方を見る。
 人の気配は変わらずにないのに、シークレットキャラのエデン・オールドマンが姿を現した。
『薔薇の香りに誘われて……』のシークレット攻略対象、エデン・オールドマンはこの世界の神様。
 主人公レインに『神の祝福』を授けて、妊娠できる体にしてそりゃあもう人間には不可能な特殊プレイの数々をこれでもかと網羅する!
 彼のルートは神界にレインが誘拐監禁されるため、ハーレムエンドに唯一加われない。
 シークレット攻略対象エデンのエンディングは特殊エンド扱いだ。
 そのエデンが――私を餌にお二人を呼び寄せた?
 
「ああ……トリシェ・サルバトーレ……あなたのその姿……やはりあなたはその姿の時がもっとも美しい」
「誰?」
「っ!?」
 
 うっとりとした表情は、ゲーム画面でレインにのみ向けられていたものだ。
 その甘い声でエデンが呼んだのはトリシェ様。
 対するトリシェ様は間髪入れずに「誰?」である。
 その発言に、エデンは硬直した。
 
「わ、我を覚えていないのか?」
「ごめんね、俺、人の顔と名前覚えるのめちゃくちゃ苦手なの。惑星十個分くらいのあらゆる生物種を治癒してきたから『何月何日何時にお会いした誰々です』って言われてもわかんなーい。要件だけ教えてくれる?」
「惑星十個分……」
「トリシェさんはこう見えて、英雄神とまで呼ばれているほど神格の高い神様なのですよ。僕より格上なんです、実は」
「そ、そうなんですか」
 
 界隈では知らぬ者のいない神様なのだそうだ。
 そんなすごい神様がなんで弱体化して地球にいたのだろう?
 いや、それよりも今は目の前でプルプル震えているエデンの動向だ。
 彼の望みが叶わなければ、私は元の世界に帰れない。
 
「トリシェ……あなたのそのすべての生物への献身的な姿に、我は心を打たれた。いつかあなたがあの世界から自由になった時、我があなたを幸福に導こうと、そう思うほどに」
「え、なになに。俺に愛の告白したくてこのこの子をダシに呼び寄せたとか言わないよね? それってもしかしなくても明人はあの子よりガチの巻き込まれ?」
「その者もまた美しく、我の下で囲おうと」
「すみません。僕、もう番う神が他にいるのでお気持ちは嬉しいのですが」
「恋人がいらっしゃるんですか」
「はい。めちゃくちゃ気性が荒い荒神ですよ。喧嘩は売らない方がいいです。もう十個くらい余裕で世界を壊しているので」
 
 神様の世界の話スケールがデカすぎてゲーム内のセリフに聞こえてくるな〜。
 深く考えるのはやめよ。
 
「萎える〜〜〜。マジでクソじゃんつまんねぇ男神だなぁ。叶えるのは腐女子の夢だけにしとけよ。リアルに持ち込んだ時点でお前の負けだってありえねぇーよ。BLはファンタジーだって」
「僕の番、普通に男神ですが」
「あ、そうなの? ごめん誰だっけ、明人の番」
「多分トリシェさんに紹介すると反対されるので教えません」
「待って俺が反対するようなやつなの?」
「絶対反対されますね」
 
 じゅる、と涎が垂れかけて慌てて手持ち鞄からハンカチを取り出して拭いた。
 リアルBL、しかも神様同士、ご馳走様すぎる。
 バレてないことを祈ろう。
 あと元の世界に帰ったら私にだけ紹介してもらおう。
 壁になるのでどうか目の前でイチャイチャしていただければと思います。
 
「トリシェ・サルバトーレ。つまりあなたは我の願いを叶えるつもりはないと?」
「お前が元の世界に俺たちを帰さないというのなら、俺は俺の神格で以ってお前をぶん殴っていうことを聞かせるしかなくなるんだよね。よりにもよって俺の最盛期の姿で受肉させるんだもん、殴られる覚悟はできてるってことでオッケー?」
「受肉した時点であなたは我を受け入れるしかないと――」
「オッケー、穏便に暴力で解決をお望みね?」
 
 スッと腰の剣に手をかけるトリシェ様。
 穏便に暴力で解決とは……?
 嫌な予感しかしない言葉通り、シンプルな鉄剣はトリシェ様が引き抜いた途端白金の輝きを放つ装飾も眩い剣に変身した。
 
「我が神器、エンシャイン・アヴァイメス。核がなくとも俺が手にしたものに俺の神気を宿せば、あらゆるものが神器エンシャイン・アヴァイメスになる。七つの美徳を司る俺の神器と、このBLの世界を守護するお前じゃあ相性最悪すぎて一撃必中になるよ。それでもいい?」
「トリシェさんの神器、本当に洒落にならないので謝った方がいいと思いますよ。ちなみに僕も全盛期状態で受肉させていただけたので、一番強い神器を使える状態なんですけど……僕は光属性以外に時と生命を司る水属性も持っているのでやっぱりあなたとは相性最悪だと思います。かかってくるなら覚悟してくださいね。死にたいとお願いされても、我々光属性なので殺して差し上げることができませんので」
 
 すごく優しい笑顔でめちゃくちゃ怖いこと言っておられる……。
 
「ま、待っていただきたい」
「お、なになに命乞い? いいよぉ、俺たち優しい光属性の神様だから命乞いされたら助けちゃうよ〜」
 
 言葉は優しいのに全然助けそうにないこの空気、どうしたものだろうか。
 
「肉体は差し上げます。ですから一夜だけでも、あなたを抱かせていただきたい」
「え? 嫌だけど? 不便だし弱っちいけど、ぬいぐるみの身体は可愛いから結構気に入ってるし〜」
「一夜だけ、今晩だけ、一度だけでいいのです! このたぎる思いをどうか果たさせてください!」
「ヤダよ。それに全盛期の自分の肉の体ってシンプルに困るんだよね。全自動傷病吸引器だもん。今は明人が結界で守ってくれてるけど、こんな小さな惑星ひとつなら一時間で病院が空になる」
「え――?」
「え? ってなに、えって。俺に自分の世界の傷病人全員助けさせるために全盛期の肉体受肉させたんじゃないの? は? まさか知らずに俺に受肉させたとか言わないよね? だとしたらお前、俺のなにを知ってて『抱かせてください』なんて言ってるの? いい度胸すぎでしょ」
 
 剣を構えたまま、声の質がどんどん下がっていく。
 肌がヒリヒリと冷たくて、あまりのドMホイホイ具合に腰が砕けそう。
 私、今までドSキャラには魅力を感じなかったけど、まさか、これが……?
 新たな扉を開いてしまった……?
 
「まあ、呼び出された理由は聞きましたし最低条件は満たせたのでいいのでは? というわけで界門を開けてくれません? 自分たちで帰るので」
「……断る。トリシェ様を抱かせていただくまでは、あなた方とそこの悪役令嬢を帰すつもりはない!」
「オッケー、やっぱり穏便に暴力で解決ね」
「どうしても抱かせてはいただけませんか」
「くどい」
「それならそれでファンサの一つもしてくださってもいいのでは!? 具体的にはチューの一つくらい!」
「図々しい!」
 
 それは本当にそう思う。
 人を殺して攫って悪役令嬢に仕立て上げ、そんな私を助けようとしてくれた神様を攫う餌にした。
 しかも目的は神様とえっちすること。
 そんな理由で私は殺されたのかって思う。
 残念すぎる。
 好きだったのに、エデン。
 特殊プレイの扉を開いたのはエデンのおかげだったのに。
 もう、まともな目で見られない。
 ……ん? 元々まともな目で見てなくない?
 ダメだ、今は正気に戻るな。
 ……ん? 正気に戻ったからまともな目で見れないのかな? ん? 意味わからなくなってきたな?
 
「お待ちください! その娘の気持ちも聞いてからでもいいではありませんか」
「はあ? この子は帰りたいって言ってるけど?」
 
 え? 私?
 まさかこの後に及んで私をダシにして自分の性欲を押し通そうとしているの?
 トリシェ様じゃないけど本当に「はあ?」だわ。
 
「あなたの側に誘導したのは、その世界に絶望し、我が世界をこよなく愛する者を選びました。その娘はこの世界を愛している! その娘とてこの世界で愛でてきた者たちと過ごす時間は至福のはず。愛と慈悲の神であるあなた方ならば、その娘の望みを叶えてやることになるとは思いませんか!」
 
 なんという理屈。
 確かに私はこの世界を――『薔薇の香りに誘われて……』を愛してる。
 ブラックな会社に就職した私を支えてくれた鬼畜攻めキャラたちと、彼らに翻弄される主人公レインの健気さ。
 そうよ、愛してるわよ。
 壁になってキャラたちのくんすまほぐれずを眺めて心を無にして現実を忘れたい!
 
「言ってやりなよ」
 
 トリシェ様に言われて、スーーーと息を吸い込む。
 
「BL世界の悪役令嬢とか終わってますわ!」
 
 元の世界には確かに絶望している。
 この世界も愛している。
 けど、私を助けようとしてくれた神様たちを、差し出すつもりはない。
 そのくらいの理性は残ってる。
 
「だってさ」
「くそ!」
 
 触手を発生させ、無数のうねうねねとねとの肉蔦が襲いかかってくる。
 しかし、それらは突然ビキビキと音を立てて血管ではないなにかが浮き出して止まった。
 
「相性が悪いって言ったではありませんか。僕は水属性も持つんですよ。こんな僕の得意フィールドで、僕の得意分野である触手系で襲ってくるなんて、自殺志願かなにかなんですか?」
「な――!」
 
 周りの植物の根が触手を絡め取っている。
 明人様の能力なの?
 脅しでも誇張でもなんでもなく、本当にエデンと相性が悪かったの!?
 
「出直してきな、坊や。――エンシャイン・アヴァイメス!」
「ひっ! ぁ、あああああああっ!」
 
 光が剣の形になって巨大化して見える。
 そのままその光の剣がエデンを触手ごと切り裂いた。
 わ、わあ、本当に暴力で解決してしまった。
 驚いて……いや、呆気に取られていると、剣の光がどんどん強くなっていく。
 
「さあ、界門を開けたよ。約束通り助けてあげる」
「……あ」
「元の世界に帰っても、生き返らせて助けます。心配せずに委ねてください。大丈夫ですから」
「っ、は、はい」
 
 BL世界の悪役令嬢を演じるのはもう終わり!
 パーティー会場を去る時と同じように左右から美青年と超絶美形の神様にエスコートされ――私は意識を手放した。
 
 
 
 
 ふと、そんな眩い光に瞬きを繰り返す。
 どれほど時間が経ったのだろう?
 消毒液の匂い、白い天井、穏やかな空気。
 
「目が覚めましたか?」
「あ……、え?」
 
 石竹色のふわふわの髪。
 けれど、声が若い。
 顔を声の方に向けると、車椅子に座った一回り以上年下の男の子がりんごをスラスラと剥いていた。
 
「あ、あなたは、明人様……?」
「それは神名の方なのです。人間としての名前は春日彗(かすがすい)といいます。春日芸能事務所の社長なんですよ」
「え、げ、芸能事務所の、社長、さん!? いっっっ!」
「あ、まだ起きないでください。トラックに激突されて内臓破裂と脊髄粉砕、腕と足が複雑骨折、頭蓋骨折、大量出血の即死だったんですから」
「え、ひ、え?」
 
 並べられた怪我の名前があまりにも恐ろしいんですが。
 いや、死んで……転生した、とは聞いていたけれど。
 じゃあ、本当に生き返らせてもらえたんだ。
 
「ちなみに、トリシェさんは今あなたの体内に憑依しています。一時的に深く眠っているのであなたの人格に影響はありません。見事に死んでいたので、肉体が完治するまではトリシェさんの権能で生き延びている状況だと思ってください。今トリシェさんの憑依が解けると今度こそ死にます」
「っ!」
「ところで、何度か会社の方から電話があったので僕から説明をいたしました。目が覚めたら一度連絡がほしいとのことです」
「あ……」
 
 差し出された鞄とスマートフォン。
 会社から連絡、と聞いた途端息苦しくなった。
 上手く息が吸えないし、吐けない。
 
「親御さん、県外なんですね」
「うっ……は、はい……」
「寝ている間にお母様が来られましたよ。今はホテルに帰られました。また午後に来るそうです。先にお母様にお目覚めになったことをご連絡しては――」
 
 と、気を遣った明人様……いや、彗様が言ってくれた時、会社から電話がかかってきた。
 ひっと、喉が引き攣る。
 彗様が私の手からスマートフォンを取り上げて、なんの迷いもなく通話ボタンをタップした。
 
「はい、もしもし。はい、こちら舟崎さんの携帯電話で間違いございません。坂田様ですか? はい、舟崎さんの意識はまだ戻っておりません。あまりいい状態が続いてはいないと思います。……解雇、ですか? 三日お休みされただけでは? しかも事故で。…………そうですか。わかりました。では、お母様が代行で舟崎さんのお荷物を取りに行くようお願いしますね。その時に解雇予告通知書と解雇理由証明書をよろしくお願いします。……はい? 解雇予告通知書と解雇理由証明書を、ご存じない? まさか? 経営者の方ですよね? 不必要とおっしゃるのですか? 確かに僕は御社とは無関係ですが、同じ経営者として無視できませんね。本気でおっしゃっておられます? でしたらこちらとしても然るべきところに報告義務が発生してしまうのですが――ええ、そうしてください。はい、はい、ではご用意の方よろしくお願いしますね。ふふ、脅しではないですよ? 顧問弁護士もおりますので、うちは。はい。……では、重ねてよろしくお願いします」
 
 ぶち。
 と、通話が切れる。
 今の話……まさか……。
 
「解雇するそうです。ても解雇予告通知と解雇理由証明書は用意してくださるそうなので、安心してくださいね」
「や、辞めて……辞められた、んですか? 私……」
「はい。それで、入院費や治療費もろもろ僕の方で支払っておくので、しばらく僕の事務所で事務をお手伝いしてくださいませんか?」
「え!?」
 
 顔を上げる。
 怒涛の展開すぎて――でも、あのブラックな職場から逃れられただけでも涙が出そうなのに。
 
「や、雇っていただけるんですか……?」
「その代わりまずは体調を整えてください」
「ほ、本当に、いいんですか!?」
「事務は全部僕がやっていたので、事務職が来てくれるのは助かるんですよね。でももう一度言っておきますね」
「え?」
「体調を整えてからです」
 
 スッと開いた翠緑の瞳に見抜かれて、先程とは別の意味でヒュと喉が鳴る。
 コクコクと頷くとにっこりと微笑まれた。
 やっぱり間違いなく明人様だ。
 
「お母様の滞在費や旅費含め費用などは僕の方で負担するので、今はゆっくり休んでくださいね」
「え! いえ、そんな――」
「ゆっくり休んでくださいね?」
「え、えっと、でも……さすがに申し訳ないような……」
「大丈夫ですよ。知り合いの病院ですし、ここ。僕もお世話になっているんです」
「で、でも……」
「大丈夫ですよ。僕お金には困ってないので。なにしろ神様なので。今度の宝くじで前後賞当ててチャラです」
「え……ええ?」
 
 どういうことなの。
 
「それよりなにか他にほしいものや必要なものはありますか? 手配しますよ」
「あ、そ、それじゃあ一つお願いしてもいいですか……?」
「ええ、なんでもどうぞ」
「明人様……じゃなくて、彗様が彼氏さんとイチャイチャしているところを拝見させてください! 私、壁になるので!」
「…………。なるほど」
 
 なにがなるほどなのかわからないがなるほどと言われてしまった。
 でもごめんなさい。
 心の栄養が足りなさすぎるんです。
 退社できたのは本当に嬉しい。
 恩ももちろん感じています。
 むしろ恩しかありません。
 でも、でも……!
 
「でも多分僕が十八歳にならないとキス以上のことはしてくれないと思うので、最低でもあと二年は勤めていただかないといけないと思いますが、それでもいいですか?」
「はい!!」
「では安静にお願いしますね」
「はいっ!」
 
 なんならキスシーンも見たいです。
 ちなみに彗様は受けですか攻めですか?
 年上攻め年下攻め?
 ああ、聞きたいことが多すぎる!
 
「……あ、彗様」
「はい?」
「これだけは教えてください。彗様は、受けですか……?」
「……受けですね」
「受け……!」
 
 公式供給ありがとうございます!
 私、壁として事務職頑張ります!
 
 
 
 
 
 
 終わり