紫陽花が泣く頃に




「千紘くん、ありがとね」

店を出る頃には、すっかり日が暮れていた。目の前にあったシャーペンをただ触っただけなのに、高木さんは俺のおかげだと主張し続けてくる。

「お礼なんて言わなくていいよ。それより自分のものは買わなくてよかったの?」

チャーム付きのシャーペンは二種類あった。彼女はピンク色のほうも気になっていたみたいだけど、買ったのはブルーのシャーペンだけだった。

「今日の目的は妹のプレゼントだったから、自分のはいいんだよ」

「そっか」

外灯に照らされている影はふたつ。シルエットだけを見ればやっぱり俺は女子みたいだけど、高木さんみたいに風に吹かれても髪からいい匂いがしたりはしない。

「高木さんのシャンプーって、なんの匂い?」

「フローラルだよ。フレッシュな花の香りがしない?」

「うん。する。けっこう好きだ、それ」

流れるように言ってしまったあとにハッとした。他意はないけれど、冷静に考えれば普通に気持ち悪いことを口走ったことは明白だ。

「あ、えっと、今のは……」

早く誤解を解かないとマズイ。もしも彼女が友達にこのことを話せば、俺は陰キャなだけじゃなく、高木さんのシャンプーの匂いが好きだと言った変態に成り下がる。

「ねえ、千紘くん」

信号はこんな時に限って赤。車が行き交う横断歩道の前で足を止めると、さらに気まずい雰囲気になった。絶対に高木さんも俺のことを気持ち悪いと思ったはずだ。

「な、なに?」

ヤバい。声がひっくり返った。
 
「私のことを高木さんって呼ぶのやめない?」

彼女から出てきた言葉は、想像と違っていた。思考回路がうまく結びつかなくて、自分の口だけがバカみたいに開いている。そんな俺のまぬけな顔を、通りすがる車が次々と照らしていく。

「なんか高木さんだとよそよそしい感じがするから、思いきって私のことを名前で呼ぶのはどうでしょうか?」

「ど、どうでしょうかと言われても……」

なんでこんな話になったんだ? シャンプーの話をしてなかったっけ。いや、それを掘り返されても困るのは俺のほうなんだけど。

「あ、もしかして私の名前知らない? 美しいに憂いと書いて、美憂って言います!」

「……それは知ってるけどさ」

「あ、本当? 私、内心は認識されてないんじゃないかって不安だったの。じゃあ、今日から私のことは美憂ね。さん付けもちゃん付けもなしだから」

まだ許可してないのに、勝手に名前で呼ぶ流れにされていた。彼女は友達が多いから、こういうやり取りも慣れっこなのかもしれない。

信号が青に変わる。俺はまだ動き出せなかった。

「どうしたの? 早く行こうよ」

――美憂。心の中で呼んでみた。

たしかに、天使のような彼女は名字よりも名前のほうが似合っている。

きっとこの瞬間から、俺は彼女に心を奪われていた。チョロいと思われようと、彼女にしか反応しない鼓動のスイッチが入ってしまったんだ――。