── それならば、せめて。

せめて、彼女の記憶からあの男が少しでも薄れるまで、動き出すのは待とう。

今、弱っている彼女を困らせるのは本意じゃないから。

だが、そうは言ってもこれくらいなら、許されるだろうか。

オレは、オレの手から抜け出そうとするその小さな手を逃がさないとばかりに握り締めた。


「……葉菜先生が、もし本当に平気だと言うならもちろんこの手は放す。だが、オレに遠慮して平気じゃないのに平気なフリをしているだけなら放さない。……その〝大丈夫〟はどっちだ?」


オレの真っ直ぐ射るような視線に、葉菜先生の色素の薄いヘーゼルナッツ色の瞳がウロウロと宙を彷徨う。

本人に自覚があるのかは定かでないが、彼女は多分嘘がつけないタイプだ。たったそれだけの仕草で答えを察する。


「葉菜先生。普段は子供達から頼られる立場なんだろうが、こんな時くらいは頼ればいい。オレは遠慮されるよりも、頼られた方が嬉しい」


彷徨っている視線を捕らえて、まるで子供に言い含めるように目尻を下げてゆっくりとそう重ねれば、彼女の瞳にみるみる幕が張り、その中に留め置くことが出来なかった雫がボロッと一粒、彼女の頬を伝った。