初恋は一生しないで取っておくことではない。私の初恋は今、中学2年生になって初めて起きた。
 相手が気になるのはなんでだろう? 例えば、体育祭でサッカーをしている君を無性に応援したくなるのはなぜだろう? 
 なぜ、私は君のことを無意識のうちに目で追っているのだろう――。

 なぜが積み重なるきっかけは、君、――侑里太に話しかけられたからだ。
 ある日の放課後、私は忘れ物をして、教室に戻った。誰もいないはずの教室になぜか、侑里太(ゆりた)がいた。教室の引き戸を開けると侑里太は私を見つめてきた。
 
「お、理那じゃん。どうしたの?」

 侑里太はそう言って、ニコッとした表情をした。思いがけない出来事に私は思わず、息をすっと吸いこんだ。

「忘れ物……したの」
「へえ、そうなんだ」

 侑里太は窓側の一番奥の席で、スマホをいじっていた。西日が教室に射し込んでいて、教室の3分の1はオレンジ色に染まっていた。教室の窓が開いていて、涼しくなった強い海風が教室の中に入ってきている。その風で教室の一番奥の白いカーテンが揺れていた。その中に侑里太がいる。函館のわずかしかない夏をこの教室のなかに詰め込んだようなそんな雰囲気が漂っていた。

「あ、スマホ持ち込んでるんだ」
「まあね。暇だから」
「侑里太は、何してるの?」私は侑里太にそう聞いた。

「ううん。なにもしてないよ。ただ、教室で暇つぶししてるだけ」
「え、帰らないの?」
「うん。今日さ、家の鍵忘れちゃったんだ。だから、親帰って来るまで、俺、帰れないのさ」
「そうなんだ。大変だね」
「うん。暇だから、少し話さない?」
「――いいよ」

 私は急に緊張し始めた。胸から筋肉が固まっていくようなそんな感覚がした。私は侑里太の前の席に座り、体勢を侑里太の方に向けた。イスを斜め右方向に斜めにしたとき、イスの滑り止めが床と擦れて、音が鳴った。机の上にはスマホと文庫本が置いてあった。スマホには有線のイヤホンが付いてた。

「なあ」
「――なに?」
「もし、人の気持ちがわかるようになったらどうする?」
「え、なにそれ」
「そのまんまの意味だよ」

 侑里太はそう言ったあと、微笑んだ。そんな侑里太の落ち着いた仕草に私の心拍数は上がり始めている。というより、その質問の意図がいまいちわからず、少しだけ私は考え込んでしまった。

「――何に使うか、私は思いつかないな。侑里太は?」
「俺は、その人の気持ち知ってから行動を起こしたいな」

 侑里太はそう言ったあと、すっと息を吐き、右手で頬杖をし始めた。そして、左側の窓を見つめていた。傾き始めた夏の黄色い西日が侑里太を照らしていた。侑里太の小さくて整った顔の所為で余計にソワソワした気持ちになってきて、揺れそうな思いを誰かに伝えたくなった。

「もし、行動が必要な場面だったら」
「なにそれ。――わからないよ」

 最初は侑里太が格好つけているのかと思った。だけど、もしかしたら、本当にいつもそんなことを考えた上で、なぜか今、私に披露しているのかもしれない。

「うーん、俺はさ、人の気持ちわかって、確証がないと動けないかもって言いたいの」
「そうなんだ」
「相手の気持ちがわかって、確証が得れたら、傷つかずにすむじゃんってことさ」

 侑里太はそう言い終わると頬杖をやめて、また私をじっと見つめてきた。二重の大きな瞳が透き通っているように感じる。侑里太の瞳に吸い込まれそうになるくらい、気持ちも一緒になぜか揺れる。

「――私もそうかもなぁ。人の気持ちがわかったら、余計なこと言わないで傷つかないで済むし、空回りする行動取らなくなるかも」
 私はあまり、考えもなしに侑里太が言ったことをそのまま繰り返すような、返し方をした。すると侑里太はまた、目尻にシワを作って微笑んできた。

「そうそう、そういうこと。そういうもどかしさ感じたことある?」
「私はあるよ。――だから、あんまり友達少ないんだと思う」
「そう? 少なくなさそうに見えるけどな」
「私なんて、輪の中のハズレにいるようなもんだよ」
「俺はそう思ってないよ。ただ、周りの子にくらべてかわいいよね」
「――え」
 バコンと胸の奥が鳴った。そのあと、派手な音を立てて、早いテンポで胸が暴走し始めた。気づくと、顔も手も急に熱くなっている。きっと、顔はもう、真っ赤だと思うと、余計に恥ずかしくなった。

「――あ、えーっと、なんか見てて癒やされるんだよ。そういう意味だよ」
 さっきまで目があっていた侑里太はそっと左下に視線を反らした。そして、右手で口元を覆った。

「……そうなんだ」
 私はなんとか、返す言葉を見つけたけど、それしか、話すことができなかった・
「あぁ……」
 そのあと、時が止まったみたいにお互いに目線を反らしたまま、沈黙が流れた。侑里太をちらっと見ると、顔が赤くなっていた。このあと、どうすればいいのかなんて、私が14年間生きてきた中で、そんな術はまだ持ち合わせていないから、私はこの場を離れるしかないなって思った。
 
「――あ、私」
 声が裏返って、変に高い声になってしまった。それで余計に恥ずかしくなった。

「このあと……用事あるから、帰るね」
 私は自分でも驚くくらい、慌ててイスから立ち上がった。立った弾みでイスが後ろに少しずれた。ゴムが床にこすれる不快な音がした。そのあと、バッグを持ち、自分の机に行き忘れたノートを取り出した。本当にこんな終わり方でいいのかな――。
 
「バイバイ」

 私は侑里太にそう言ったあと、教室を出ようと歩き始めた。
 
「なあ、待って」

 侑里太が私を呼び止めた。
 
「なに?」
「――今度、また、話そう」

 侑里太は微笑みながそう言った。
 私の初恋は侑里太の「かわいい」ですべてが始まってしまった。



 「告白しちゃえばいいっしょ。そんなに想ってるならさ」と凛子(りこ)は軽々しくそう私に返した。

 明日から夏休みだ。私は凛子と二人で植物園の奥にある砂浜で海を眺めている。砂浜にレジャーシートを引いて、その上に座って、自販機で買った缶コーラを飲んでいる。潮の香りが夏を引き立たせていた。さざなみが満ち引きを繰り返し、おだやかな波の音が心地よかった。時間は無限に続いていきそうなそんなお昼前だった。

「え、でも、関係壊したくないよ。友達に戻れなくなったらどうするの?」
「そのときはそのときでしょ。私は今すぐに、侑里太に想いを伝えるほうがいいと思う」
「凛子はそうするの?」
「うん、そうする」と凛子は自信あり気にゆっくり頷いた。

「だってさ、早いもの勝ちじゃん。恋愛って」
「まだ、恋愛かどうかもわからないよ」
「いや、恋愛だよ」
 凛子は私のこの気持ちをテレビでよく見る占い師のようにそう断言した。だから、私は侑里太のことがやっぱり好きになったんだって、しっかりと自覚してしまった。

「そうやって、どうしようって悩んでいるうちに別な女に取られちゃうよ」
「えー。だけどさ、相手も私のこと意識してたらさ、いつかは告白されるんじゃないの?」
「甘い、甘い。理那(りな)、気になったら女から告白したほうがいいんだよ。男から告白されるって思い込みを捨てて、こっちから勇気出したらきっといい結果になるって」
「そう上手くいくかな。私にはわからないや」

 私はそう言ったあとコーラを一口飲んだ。そして、右側を見た。海岸線に沿って、湯の川温泉のホテルが並んでいた。そして、左カーブを描いている海岸線の先には緑色の函館山がかすかに見えた。函館山の山頂は平べったい。錠剤を出したあとのプラスチックの梱包のように見えた。

「うーん。ねえ、まずLINEから交換すればいいんじゃない?」
「え、どうすればいいの?」
「普通に『教えて!』って言えば大丈夫だって」と凛子は笑いながら、コーラを一口飲んだ。
 
「その普通にって言うのがわからないよ」
「うーん、そっか。――そしたらさ、4人でデートしてみない? 私から侑里太のこと誘って見るから。もちろん、私は夏織(なつお)を連れて行くからさ。そのときにLINE聞くような流れ、作ってあげるよ。ナツオとユリタも仲いいはずだから、上手くいくよ。あ、夏織に言ってもいいでしょ? 侑里太のこと好きだってこと」
 話が勝手に進みすぎてよくわからなかったし、私が侑里太のこと好きだってことを、夏織にまで知られるのはちょっと嫌な気持ちになった。凛子はいつも、昔からこうやって、話を進めようとしてくる――。

「ちょっと。それはやめてよ。変に思われるでしょ」
「え、なにが?」
「夏織にまで言わなくても……」
「いいでしょ。私の彼氏だし。それにこういうときはダブルデートが一番いいの」と凛子は自信に満ち溢れた表情で、元気よくそう私に返してきた。私は思わずため息を吐いた。

「変もなにもないよ。むしろ手助けしてくれるよ思うよ。ね、言っておくね」
 もう凛子がここまで言ったら、あとには引けないことは小学校からの付き合いでわかっている。だから、私は覚悟を決めて、うん、と頷いた。

「デートのとき、ゴリゴリメイクしてきてね。私も派手にいくから」
「――わかった。練習しておく」
 そう言ったあと、右手の人差し指を砂浜にそっと押した。指はゆっくりと砂に埋れていく感触がした。