その2

戦後、この国の裏社会を牛耳ってきた関東と関西の2大広域組織の傘下に組み込まれることのなかった相和会…。
その原動力となったのは、いうまでもなく相馬豹一という、稀有極まるイカレた男の存在があった。

相馬豹一は先の大戦末期、一億玉砕の意気や良しと血気盛んな弱冠15歳にして、両親の反対を袖にし、南太平洋戦線への陸軍部隊に志願する。

当時日本軍は敗色濃い中、一気に戦局打開を画策、民間人・学生までも動員して一億玉砕も厭わない徹底抗戦の路線を突っ走っており、相馬は南太平洋諸島領奪還のために出港した船へ、何のためらいもなく胸躍らせて乗り込むのだったった。

だが…、膨大な物量を備した敵群が手ぐすねを引く激戦地へ到着という矢先、広島・長崎に原爆が投下された日本は無条件降伏…、相馬の乗った船は母国へUターンする。

すんでのところで命拾いをしたと一応に胸を撫で下ろす面々の中、相馬は復員船の中でただ一人、はしごを外された思いに染まっていた。

”せっかく思う存分、獣のように暴れられると思ったのになあ…”

こんな消化不良といった気分に陥っていた相馬は、この復員船のなかで一人の豪気ある男と出会う。

後に相和会を立ち上げ、日本の極道界を異端児として席巻することとなる相馬にとって生涯唯一の兄弟杯を交わすその男こそ、明石田泰三だった…。


***


明石田は静岡県伊豆の生まれで、当時の市議会議長を歴任していた叔父に代わり、所有する茶畑の管理を一手に賄う父親を兄4人とともに手伝っていたのだが…。

1945年春先に、陸軍からの赤紙が父と2番目の兄に届くと、明石田家は市議長の伝手で兵役免除の手段を講じようと連日親戚会議を招集しては堂々巡りを興じるのだった。

”オヤジやおじさん連中は何をグダグダやってやがるんだ。戦争行くの嫌ならアカで特高に逮捕されたって、信念をぶつければいいだけじゃねえか!それを市会議長のバッチで裏工作とは片腹いてえ!この人たちは清水の次郎長親分とも縁の通った明石田の家に泥を塗るってのか!”

明石田家で一番の末弟だった泰三は、毎晩神妙に”協議”という名の堂々巡りを繰り返す親戚連中にうんざりしていた。
で…、泰三は御年14歳にして、年齢を偽り、親戚一同に父と兄に代わっての出兵志願を親戚一同に申し出る…。

ちなみにその際の泰三少年の口上は以下の通りだった。

”叔父様、叔母様方、俺は生まれてこの方、ずっと明石田の家のモンで一番に可愛がられてきました。まだ年端もいかない小僧の身分ですが、ここは一門の窮地を救いてえんだ。…おふくろさん、俺の年を兄さんと同じにして、戦地へ送ってくだせえ。なーに、毎日、ここで獲れた不死身の富士美茶をのどから入れてション便出してるんだ。鬼畜米英の銃弾なんぞ浴びても溶かしちまうさー。ハハハ…”

明石田分家を含む数十人のシンセキ一同の前で、泰三少年がこう宣うと、一同は嗚咽を挙げ、真摯で悠然な明石田一門の窮児に万雷の拍手をもって彼を戦地送り出したのだった。


***


”ふ~、もう御曹司ぶってるのは限界だったし、ここは世間体の縛りでお人形さんになってる親戚どもから離れて羽を伸ばさんとなー。まあ、その行き先が南方の戦地となれば、伸ばした羽は焼夷弾で真っ黒こげだろうが。おお、こっちが黒焦げなら、毛唐の敵ヤローもみち連れにしてやるさ!”

柔軟自在…、然るべき決断と時世乃至は人への計り寸違い共に皆無、謀りの見たて違いなど無縁…。

戦後極道界の常識を覆し続けていった相馬豹一を永年支えた盟友は、わずか14歳にしてかく懐深き麒麟児の素養を擁していたのだった。