「……千」


好きな文字をひとつだけ、と先生は言った。

だから、いちばん好きな文字を伝えた。


あの日、夏休み前の教室で一瞬だけ見えた城坂くんの持っていた筆に彫られていた一文字を、見間違いだと信じたくて、恵美さんにこれを出してもらった。


わたしは『千』を選んだ。


先生がひとりに一本しか与えてくれない筆に刻む一文字は、大抵の人が自分の名前から取る。

わたしは城坂くんの名前がとても好きだったから。

世界でいちばん、すきな名前だったから。

『千』を選んだ。


ただ、そのあとの記憶が正しければ、これがここにあるのはおかしい。


城坂くんは『芭』を選んだのだ。

お互いの名前にどんな意味、どんな想いが込められていたのかもわからなかったのに、世界でいちばん美しいと信じていた文字を城坂くんが選ばなかったことを知って、半ば無理やりにお互いの筆を取り替えた。

刻まれたわたしの一文字の意味を、城坂くんに聞こうともせずに。


確かに交換したはずの筆が、正しい形で手元にある。

城坂くんが再び入れ替えたのだとしたら、一体いつ。


ぐるぐると回る思考を一旦打ち止めて、桐箱に筆を仕舞う。


はあ、と息を吐く横で、恵美さんが別の道具を並べてくれていた。


「これ、全部持っていく?」

「そう、ですね。できたら全部持って帰りたい」


お父さんが生きていたころ、自宅ではこれらを守れないとわかってしまったから、道具一式は恵美さんに預けていた。

習字は辞める、と。

もう筆を握ることはない、と。

泣きながら段ボールに封をして、捨てられないように、壊されないように、必死に守ろうとした。


だから今、変わらない姿で、ここにある。