仁のお勧めの韓国料理店の煮込みカルビ(カルビッチム)は、本当においしかった。


 ミケオの死期が近いことは、その高齢からもいなくなる数日前のそわそわと心ここにあらずな様子からも、なんとなくわかっていたというきぬさんの言葉を仁から伝え聞いて、カルビッチムを食べ終わる頃には凜もなんとなく諦めて気持ちが落ち着いていた。

 死期が近くなった飼い猫は飼い主の前から姿を消すというが、危険のない場所で最期を迎えたいと思うからそうするようだと、仁が言った。飼い主としては最期を看取りたいのもやまやまだが、猫の野生の本能はそれを望まないのだという。

 デザートのトリプルチョコレートかき氷(ピンス)にスプーンを入れながら、凜はちょっと落ち込んだ。

 ミケオの姿が見えなくなってからずっと探し続けていた自分の行為は、ミケオにとっては有難迷惑だったのかもしれない。猫だし、もう死んでしまったし、確かめようがないけれども。

「そういうことで、そんな悲しむことじゃない。人間が思っているようなけなげな理由だったとしても、野生の本能が理由だったとしても、ミケオがいなくなるのを阻止することはできなかったからな」

「じゃあ、酒チョコの出番はないわね……」

「いや、そうでもないな。酒飲んで泣く奴、見たことないから。見てみたいし、そのうち食わしてみたい」

「なんてことを……ひどい」


 凜はピンスをスプーンから落としそうになる。この店のピンスはチョコレートアイスを固く凍らせて、それを削ったものだ。だからかき氷というより、削りアイスという感じ。

 ふわふわで、ミルクアイスの削ったものの上に、チョコレートピンスと生クリーム、チョコレートチップスとチョコレートソース、イチゴやバナナ、オレンジがトッピングされている。量はひとつ二、三人前あるので、凜と仁はテーブルに向かい合って両側からつついている。

 イチゴをぐさりとフォークで刺して口に放り込みながら、仁はいたずらっ子のようににやりと笑う。


「な、泣いたところなら、さっきもう見たじゃない……」

「だから、酒飲んで泣くのはまた違うと思う。あ、この前言ってた例の映画、泣けるんだろう? それを見ながら食ってみるとどうなるかな。楽しみだ」

「そんなの……号泣必須……」

「うーん、俺も泣いちゃうかもしれないなぁ」

「仁さんも食べればいい」

「酒チョコ? うーん、まあ、つきあってやってもいいか」

「なんで上から目線なの?」

「だって、号泣したら面倒見てやらないとな」

 凜は自分の顔が真っ赤になるのではないかと焦りだし、冷たいピンスを慌てて口の中に入れる。ごくりと飲み込むとアイスクリーム頭痛が起きて、急いで手で押さえる。

 その一連の動作を観察していた仁がおかしそうにくすくすと笑う。

 それは、凜の間抜けぶりを馬鹿にしているのではないことは、凜にもわかっている。

 それどころかくすぐったいくらい優しい甘さが感じられて、自分ではどうしようもなく心がふわふわと制御不能に漂ってしまう。「面倒見てやらないと」と義務的な言い方なのに、ネガティブな感じがしない。


「仁さん」

 凜はアイスクリーム頭痛が収まると、スプーンを置いてから仁をじっと見つめた。仁はうん? と片眉を吊り上げる。

「先回りして教えておくと……私が酔っぱらうと、きっと祖父母を思い出してめそめそ泣くと思う」

「想定内だな」

「それから、ふだん言いたいことを言えない反動で、超ネガティブになる可能性も高いと思うの」

「要するに、愚痴るんだな?」

「そう。アリジゴクのようにね。それでも、それでも……」

「うん」

「き、嫌わないでいてくれる?」

 不安げに自分を見つめる凜の大きな目を見て、仁はふと口元を緩めた。

「中学生か。そんなんで嫌うわけない。あー、来た!」

 アイスクリーム頭痛の襲撃に、仁は目をつぶって頭を押さえた。



 翌朝、凜は散歩がてらマサオさんがミケオを埋めたと言っていた、橋のたもとへやってきた。

冬枯れであまり草が生い茂っていない草むらの中に、マサオさんの言っていた通り、人の頭ほどの大きさの黒っぽい石が置かれた、少しだけ土が盛り上がったところがある。

それがミケオの墓らしい。手を合わせてミケオの冥福を祈り、凜はもと来た川沿いの遊歩道を戻りだす。


「凜さん?」

 ふいに背後から聞きなれた声がして凜は振り返り、笑顔で答えた。

「おはようございます、廸子さん」

 きぬさんちへ向かう廸子さんは、凜に笑顔で歩み寄ってきた。二人は並んで歩きだす。

「こんな朝早くに、どちらへ?」

「ミケオのお墓参りに行ってきました」

「そうですか。ミケオは残念でしたね」

「はい……きぬさんは大丈夫ですか?」

「ええ。すこし元気がなかったけど……大丈夫そうでしたよ。きぬさんはあなたのほうが心配だって言っていましたよ」

「はい。人間がしてあげたいって思っているのと、猫がしたいって思っていることは必ずしも同じじゃないって仁さんに言われて、それもそうかって納得できたので」

「ふふふ。仲がいいみたいでよかった。いい子でしょう? 口は悪いけど、優しいんですよ。うちに来ても最近は凜さんのことばかり話していますよ。ご飯食べにくる回数も減ったし、なんかすごく楽しそうで。凜さん、これからもあの子のことよろしくお願いしますね」

「えっ、あ、いえあの、私のほうこそ……」

 真っ赤になってうろたえる凜の腕をそっと取って、廸子さんはいたずらっぽく笑んだ。たしか、この前も廸子さんは仁のことをよろしくと言っていたっけ。そして廸子さんはちょっといたずらっぽく笑う。

「凜さん、地元にはあの子のこと狙ってる子が、いっぱいいるんですよ。だからしっかり捕まえておかないとね!」

「えっ、そんな……」

「あらやだ、そんな顔しなくても心配ありませんよ。あの子には凜さんしか見えてないみたいですしね。ただ、凜さんも頑張ってくださいねって、それだけです。私にはあの子も実の息子と同じようにかわいいんです。だから、幸せになってほしくて。よろしくお願いします」

 立ち止まってこちらを向くと、廸子さんは深々と頭を垂れた。凜は驚いて、同じように頭を垂れた。

「こちらこそ!」



 あとで行きますね、と言う廸子さんと別れて、凜は家の中に入る。

 コートを脱いでお湯を沸かし、紅茶を入れる準備をする。



『凜さん、あんたは、めちゃかわいい人だな』

『いつの間にやら、あんたは俺の大事な人だ』



 昨日、仁が言ったことを思い出して、思わず絶叫しそうになる。

 まるで初めて誰かを好きになったみたいな気分だ。数年前までほかの人と結婚の予定まであったのに、こんなにも心が揺さぶられることは今まで一度もなかった。

 だから、今更だけどずっと一緒にいたいとか嫌われたくないとか、そういうことを思ったのは今回が初めてなのだ。今までは相手から好意を寄せられてそれを受けて、そして終わる。

 終わるのは、凜自身がその関係を続けたい、離れたくない、終わりにしたくないと思えなかったから。高木に関してはプロポーズまでされたのに、家を離れなければいけないことに納得がいかずに断った。熱烈に望まれたかったからではない。

 彼は「妻むき」の誰かと結婚したかったのだ。それに凜が当てはまっていたからプロポーズされただけ。言い換えれば、凜じゃなくても当てはまればほかの誰かでもいいのだ。

 でも凜にとって祖父母の遺してくれたこの家はたった一つの彼女の大切な避難所《アサイラム》であって、どこかほかの家がこの家の代わりになれるわけではないのだ。



 仁は、凜のことをちゃんと見ていてくれる。好き嫌いがないとか、好物はチョコレートだとか、ちゃんと知っていてくれている。

 そして、いままで誰にも言われたことのないことを言ってくれる。



 韓国料理の店を出てすぐ、歩道に無断駐車してあった自転車に躓いた凜がバランスを崩したとき、仁が右腕を支えて引いてくれたので転倒せずに済んだ。

 お礼を言おうと首をひねって振り返ろうとすると、そのまま後ろから抱きしめられて凜は固まった。

「凜さんはちっさいな。光大(こうた)とあんまり変わらない」

「こうた?」

「英介とエリカの息子、廸子さんの孫」

「五歳児でしょう? 一緒なわけないじゃない! ちょっと、仁さ……きゃーっ!」

 仁が凜のウエストを持ち上げてふわりと一回転する。凜の両足が地面から浮いて、凜は思わず叫んでしまう。あはは、と仁が笑いながら凜を地面に下ろした。着地させたところは、どこかの会社の入り口わきの花壇の縁石の上で、地面から三十センチくらいの高さ。ちょうど、仁と目線の高さが合う。

「あの……」

 凜が何かを言いかけた時、仁の顔がすっと近づいてきて三秒触れるだけのキスが降りてきた。

 驚き固まる凜の額に自分の額を軽くぶつけて、仁は口の端を上げて笑む。

「初めて会った時に言ったこと、撤回したい」

「何を撤回したいの?」

「うーん、ほらさ、『そんなにびくびくしなくても、取って食いやしねぇよ』ってやつ」

「どうして?」

「取って食っちまいたくなったから」

「え? どういう意味?」

「いや……何でもないよ。週末はまた、星を見に行こう。ちょうど流星群が見えるらしいよ」

 仁は苦笑する。

「ほんとう?」

 凜が顔を輝かせる。仁は凜の手を取って縁石から歩道に下ろす。そのまま手をつなぎ、二人でゆっくりと駐車場まで歩きだす。



 
 ぼこぼこと電気ポッドのお湯が沸騰する。

 昨夜のことを思い出して、凜は幸せに浸る。

 スマホがブーブーと音を立てる。加奈からラインのメッセージ。

『明日、高木さんが日本を発つの。会わなくていいの?』

 凜は首を傾げる。どうして会う必要があるの? そういえば、今月出発すると言ってたっけ? 行く前になんとかさんと、結婚するんだっけ? 行ってからするんだっけ? どちらでもいいけど。


 わからないのは—―なぜ加奈はもう別れた人の情報を、いまだに凜に流してくるのかということ。

 ひっかきまわしたいだけかな? 凜が高木に未練があるとでも勘違いしている? それも、凜が付き合っていた時のほかならぬ浮気相手だった加奈が。

 仁と一緒にいたのを見られると、絶対に騙されてると何度も言ってきた。かと思えば自分は既婚者の営業部長と出かけたり、結婚する(したのか?)とわかっている(高木)とも会い続けている。加奈は何がしたいのだろう?

 でも、ひとつだけ彼女には感謝している。


 あの日、嫌だったけれど、それでも彼女が強引に誘い出してくれたおかげで、仁と偶然会うことができた。

 帰る理由を考えこんでいて、仁とトイレ前の狭い通路でぶつかったのだ。

 そのことを感謝しているからといって……もう、彼女とは不毛な付き合いをずるずると続けようとは思わない。

 やはり今回もスルーしようと心に決める。そのうち彼女も凜のことを忘れてくれるだろう。



 ティーポッドを温めてお湯を捨てる。ディンブラの茶葉を入れてお湯を注ぎ、ふたをしてキルティングの覆い布(ティー・コージー)をかぶせる。ミルクを温めておく。

 それよりもなによりも、週末は何を着ようか? 山に行くなら、暖かい格好をしないといけない。ムートンのブーツを出して、陰干ししておかなくちゃ。

 冷蔵庫のタッパーの中から無造作にリンドールチョコを取り出す。

 あえて包み紙の色は見ずに、三つ。はずれのないチョコレートだから、青のビターでも赤のミルクでも金のホワイトでも銅のナッツでも、その他なんでもいい。

 マグカップに温めたミルクを注ぎ、長めにふやかした紅茶を注ぐ。片手にミルクティ、片手にチョコレートを三つ。作業台について作業を始める。

 ふと手元を見ると、三つとも赤いリンドール。あまいあまいミルクチョコレート。



 加奈のことはどうでもいい。凜はもう、週末のことで頭がいっぱいだった。

 
 
 正面から見るとまるで羊の角のようにくるんとしたフォルムの、ロココ様式のベージュのアームチェアーのミニチュアを作りながら凜ははっと思いつく。

 そうだ、メゾン・デュ・ショコラのマカロンを持っていこう。星を見ながらガナッシュ入りのマカロンを食べるなんて、最高の贅沢じゃない? 自分のぶんだけじゃなくて、仁には豆大福を。

 あ、午後はデパ地下へ行こう。

 おやつは任せて! と凜は宣言しているのだ。

 そして、きぬさんと廸子さんのお茶菓子も買ってこよう。



 来年には春先くらいに、温室は仁の手できれいに生まれ変わる。楽しみで仕方がない。


 おじいちゃん、おばあちゃん、勇気を出して箱の中に手を入れて、つかんでみたチョコレートは大当たりだったわ。

 人生最高のチョコレートはおじいちゃんとおばあちゃんで引き当てて二個で終わりだと思っていたの。

 でも、もう一つとっておきのチョコレートが、私の箱の中には残っていたの!

 凜はふっと笑う。宝くじと同じね。買わなければいくら望んでも当たらない。望んでみたら、あとは運だめし。



 人生って、なんてすてき。



                                                                        【完】