「お気をつけて」

鼻先をかすめた煙草の匂いも、すぐ風に掻き消されました。

「言緒さん、帰っていらっしゃるでしょうか」

言緒さんが家を空けるのは、よくあることなのです。
お昼過ぎに店を他のひとにまかせて、将棋の会所へ稽古に行ったり、乞われて指導に行ったり、そのまま帰らない日もめずらしくありません。
けれど常とは違う容子に、その背中が見えなくなっても往来の向こうを見つめておりました。

そんなわたしに番頭さんは、からりと笑って言いました。

「心配ありません。対局の日はだいたいあんなものです」

「対局?」

「ええ。新聞将棋は久しぶりなので、少し気が昂っているのでしょう」

番頭さんは将棋を指す手振りをしながら答えましたが、途中で困ったように眉を下げました。

「旦那さん、おかみさんに言い忘れたんですか? あのひとは本当に……。いや、悪気はないんですよ。許してあげてください」

「大丈夫です。そんなことだろうとは思っていたので」

膨大な量の棋譜は覚えているし、仕事の調整もぬかりがない。
本来とても聡い方なのです。
ただ、本当に大事なこと以外は覚えない。
覚える気がない。
頭の中の将棋盤はずいぶん場所を取っていて、わたしの入る隙間はないようでした。

その日、言緒さんが帰ってくることはなく、翌日の昼を過ぎてもその気配がありません。
対局に時間の制限はなく、時には一局を何日もかけて指すこともあるのだそうです。
それならば、もし永遠に決着がつかない場合、言緒さんはもう戻ってこないのかもしれない、と不安がよぎりました。

包丁を持つ手をひらひら振って休めながら、栗の鬼皮と格闘していると、義妹の和香さんがお勝手に顔を出しました。

「義姉さん、今、大竹先生の御宅から電話があってね」

大竹先生というのは、新聞社と取り継いでくれた将棋指しの先生で、このときの対局は先生のご自宅で行われていました。

「言緒さん、どうかなさったの!?」

包丁を落としかけたわたしに、和香さんの方があわてました。

「いえいえ、たいしたことじゃないの。昼餉の味噌汁をこぼしたから、替えの袴を持ってきてもらえないかって。ほら、兄さんってぼんやりしてるから」

「やけどはなさらなかったかしら」

「それは大丈夫だと思う。本人は汚れた着物も気にしていないそうよ」

夕餉の支度は和香さんにお願いして、わたしは割烹着を脱ぎながら離れへ走りました。
黒紋付の替えはありませんので、紬の羽織袴をひと揃え風呂敷に包みました。
急いではいたけれど、夫が正装して向かったところに妻が普段着で行けるわけがありませんから、わたしも撫子いろの訪問着に着替えました。