たしかにそこに在るのに、手を伸ばしても触れた気がしない。
言緒さんは、そんな煙のようなひとでした。
数字ばかり並んだ本を読み耽っていたかと思えば、何かをつぶやきながら同じところを行ったり来たりしていることもあります。
食事中に箸が止まることもしばしばで、そういうときは呼びかけても、まるで手応えがありません。
しかし家人はみな慣れきっているらしく、誰も気にしていないのです。

そんな言緒さんの将棋に触れたのは、祝言からひと月ほど経ったころのことです。
いつもおかしな言緒さんではありましたが、その日は朝からいつも以上に容子(ようす)が変でした。

「おはようございます。……あまり眠れませんでしたか?」

袖が触れ合うほど近くで問いかけても、聞こえていないようでした。
おかしいと思いつつ、わたしもあたらしい生活にようやく慣れたところで、言緒さんにばかり構ってもいられません。

「お味噌汁、少しうすかったでしょうか」

いつもなら鼻歌程度には応えがあるのですが、まったく返事がもらえないのははじめてでした。
祝言から七日後に、根負けする形で初夜は済ませておりましたが、深く立ち入れるほど親しくもありません。

「ここに置きますね」

食事のあとはいつも煙草を召し上がるので、食器を下げて灰皿と燐寸(マッチ)を置きました。
しかし、煙草を口にくわえたまま、ぶらぶらと遊ばせるばかりです。
後片付けを終えて茶の間に戻っても、言緒さんは同じ姿勢でそこにいました。

さすがに声をかけようかと思うころ、言緒さんは煙草に火をつけて、ひと口だけ吸いました。
指に挟んだまま頬杖をつき、またしても動きが止まります。
じりじりと火は移動し、長くなった灰が下へ傾いていきます。
見かねて灰皿を持っていくと、耐えきれなくなった灰が音もなく落ちました。
その気配に気づいたように、言緒さんは火を揉み消して立ち上がりました。
店には向かわず、行李から紋付きの黒羽二重を出して着替え始めます。

「背広でなくてよろしいのですか?」

縦結びになっていた紐を結び直しながら尋ねても、やはり返事はありませんでした。
せっかく直した髪を手櫛で無造作に撫でつけ、中折れ帽をかぶって出かけて行きます。