かつて将棋三家が幕府の御用達町人であったころから、賭け将棋は禁止されていたそうです。
しかし将棋家でさえ俸禄はわずかで、所領地に建てた長屋の賃料を生活の支えにしていました。
幕府が崩壊して、将棋家がお役御免となってから五十年余り。
世の中は明治、大正と名前を変え、その間に新聞将棋が確立されましたが、それも多くはありません。
従って、建前上禁じられている賭け将棋も、盛んに行われています。

将棋専門で生きていかれるのは、数少ない高段者だけ。
下位の将棋指しは、各地の愛棋家を訪ね歩いて支援を受けるか、別の職と兼業しているそうです。

言緒さんはまだ四段をいただいたばかりですし、維持せねばならない家業もあるのですから、兼業せざるを得ません。
それでもご本人は材木屋ではなく、将棋指しを『本業』と考えているようです。

「将棋のお仕事は、いつまで続けるおつもりですか?」

「そうですねぇ。少なくとも今生は。いや、次の世……次の次の世くらいまではやりたいな」

「次の次の世……」

「時間はいくらあっても足らないんです。今日なんて朝から丸一日、君を迎えるために費やしたのだから、夜まで相手をしていられません」

盤の上に広げられた駒は、どれも角が取れてまるく、ぬらりと光って見えました。
なんとはなしに、これはただごとではないと感じました。

「よくわかりました」

わたしはお納戸の隅に円座を敷いて、そこに座り込みました。
言緒さんは大きくもない目を見開きました。

「ずっとそこにいるつもりですか?」

「相手はしてくださらなくて結構です」

「いや、でも……」

「構っている時間はないのでしょう? どうぞ存分にお励みくださいませ」

わたしは、わたしなりの初夜をまっとうするつもりでした。
こうなったら、すぐそばでその本業とやらをとっくりと見てやろうと決めたのです。

「見ていたって、たのしいものでもないのに」

いっかな引く気配のないわたしに、言緒さんは居心地悪そうにしていましたが、また沈むように将棋の世界に没頭していきました。

盤上を、一羽の鳥が舞っていました。
人差し指と薬指でやさしく駒を持ち上げ、宙で持ち替えてからすとんと降ろす。
また別の駒をふわっと持ち上げ、持ち替えて、すとんと降ろす。
男の人の手なのでそれなりに大きく、指も細くはありませんが、すんなりとうつくしい手です。
おそらく箸を持つよりずっと多く、駒を持って生きてきたひとなのでしょう。
一連の動きはあくまで無意識のようでした。

ふわっ、すとん。
ふわっ、すとん。

くり返される駒音は、次第に心地よい旋律に聞こえてきました。
わたしは退屈することもなく、鳥の奏でる歌声に身を任せておりました。

それがどのくらい続いたのか覚えておりません。
気づいたとき、わたしはひとりで布団に寝かされておりました。
まだ部屋の中は暗く、けれど虫の声は聞こえません。
闇の底に朝の気配がします。

言緒さんはというと、将棋盤の前で倒れるように眠っていました。
朝晩は冷える季節です。
床板はひんやりとしていました。
その肩に掻巻(かいまき)をかけながら、もしかしたらわたしは、とんでもない貧乏くじを引いたのかもしれないと思ったものです。