「わたしがうかがったことも、気づいていらっしゃらないと思ってました」

「すぐわかったよ」

「帯の絵柄なんて、よく覚えていらっしゃいましたね」

「そのくらいはね」

毎日使っている自分の茶碗さえ覚えないひとは、さも当然のようにそう答えました。

「ありがとうございます。薔薇、大好きなんです」

「ばら?」

言緒さんは異国のお経でも聞いたかのように、首をかしげました。

「この花の名前です。おそらく天地開(てんちかい)という品種だと思いますが。ご存じないんですか?」

「花の名など覚えてどうする」

たしかに、名を知らずともうつくしいものはうつくしいけれど……。
わたしは薔薇のやわらかな花びらを指先でそっと撫でました。

「これは薔薇といいます。名前を覚えるということは、それがそこに在るのだと、認めることだと思います」

ふうん、と言緒さんは外を眺めます。

「薔薇か」

ぽつりとこぼす声に、小さく「はい」と答えました。
秋の薔薇は春のものよりもしっとりと艶めいて、香気も濃いように感じられます。

「ゆき」

せっかくの薔薇を取り落としそうになりました。
わたしの名など、ご存じないと思っていたので。
でも余計なことを言って二度と呼んでもらえなくなったら困るので、素知らぬ顔を作りました。

「はい」

呼び掛けておきながら、言緒さんはわたしではなく、屋根から飛び立ったすずめの行方を目で追っています。
そしてぼそりとつぶやきました。

「ただいま」

少し髪の毛が跳ねた後頭部に、わたしは笑顔を向けました。

「はい。おかえりなさいませ」

声にうれしさが満ちるのを、隠し切ることはできませんでした。
どんなに遠くへ行っても、わたしの知らない世界に生きても構いません。
またこの言葉をいただけるなら。

言緒さんはくるりと背を向け、母屋へ続く廊下を行きます。

「お茶ですね?」

脱ぎ捨てられた草履を持って、そのあとを追いかけました。

「……本当に神通力じゃないの?」

「ひと月も一緒にいれば、このくらいはわかります」

「私はそんなに単純な人間かな」

「いいえ。どちらかというと、面倒くさい方だと思います」

わたしの足取りと呼び合うように、手の中の薔薇は楽しげに揺れていました。