まもなくして、言緒さんの熱は下がりました。
しかしまだ病み上がったとは言えず、時折咳がこぼれます。
それでも意気揚々と指導に出て行ってしまいました。
そのまま帰って来ません。

未明に雨が降ったので、朝の庭はさっぱりと洗われておりました。
紫式部の実も雫を受け、冬を待つ土と朝の匂いが、日の光にくゆります。

雨戸のご機嫌が悪く、なだめすかしていると、裏木戸の開く音がしました。

「あら、おかえりなさいませ」

「うん」

「正面からお入りになったらよろしいのに」

「音がしたから、こっちにいると思って」

ひとつ咳をして、言緒さんは持っていた包みを差し出しました。
洋紙にくるまれて、薔薇が一輪咲いています。
可憐な花などとんと手に馴染まぬ容子で、無造作に突きつけてくるのです。
とっさに受け取ると、言緒さんは草履を脱いで縁側に上がりました。
雨戸を軽く持ち上げて、二、三度揺らしたら素直に開きました。

「ありがとうございます」

「あとで少し調整しよう」

「あの、これはいかがなさったのですか?」

この季節に咲いているのですから、欧州から伝わった四季咲きの品種でしょう。
開き始めたばかりの花はふっくりとまるく、幾重もの花びらは、一番外側がバニラアイスクリームのようにあまい白です。
そこから内に向かって、頬を染めるように桃いろを深めています。

「指導に行っていた溝口さまからいただいた。御宅で今朝咲いたものらしい」

「先日勝ったお祝いでしょうか」

棘が丁寧に取り払われたあとを指で触っていると、言緒さんはわずかに言いよどみました。

「……君が好きな花だと言ったら譲ってくださった」

「わたしですか?」

「その花の帯をしていたから」

「帯……?」

薔薇模様は流行しておりますが、わたしは持っておりません。
普段縞の着物しか着ていないわたしが、こんなに華やかな帯など締めたでしょうか。

「対局のときの」

「ああ、あの訪問着の。でも、あれは……」

菊です、という言葉を飲み込みました。
秋なので、紅いろの菊文様が入った帯を選んだのでした。
しかし、薔薇と菊なんて、普通間違えるでしょうか?
いえ、言緒さんならば、紫陽花と向日葵だって間違うかもしれません。