結局半分も召し上がらず、言緒さんは茶碗を置きました。

「煙草」

咳をしながらそんなことを言うので、

「なりません」

と断ると、不機嫌に寝転んでしまいました。

「人生とは思うようにならないものだな。煙草一本好きに吸えないなんて。あー、風呂も入りたくない。飯も食いたくない。寝なくてもいい身体になりたい」

「それは無理でしょう。人間なのですから」

「だったら人間をやめたい」

「何になるというのですか?」

「鋼かな。鋼の身体だったら、風邪もひかず、もっと勉強できて、もっと勝てる」

「濡れたら錆びますよ」

「じゃあ幽霊になる」

「幽霊って駒を持てるのですか?」

「……誰かに取り憑いて」

「取り憑いた相手だって、食事や睡眠は必要でしょう」

人間をやめたいなどと愚かしいことを言う言緒さんは実に人間らしく、とても身近に思えました。

「人間をやめられないなら、風邪は治らないかもしれないな」

「では、いつまでもこうして一緒にいられますね」

「物好きだな」

「夫婦ですから」

言緒さんはぼんやり宙を見て、「夫婦か」とつぶやきます。
はじめて口にする食べ物を、ゆっくり飲み込むように。

「夫婦なのに、対局の結果は気にならないのか? 和香なんて真っ先に聞くのに」

「おっしゃりたかったらどうぞ」

黙ってしまうかと思いましたが、言緒さんは呼吸を整えてから話し出しました。

「昨日は横尾七段と角落(かくおち)の手合だったから、私は三間飛車にしたんだ。すると相手が飛車を牽制して歩を突いてきたから、私も六五から相手の銀を━━」

「わざとおっしゃってますね?」

睨むと、言緒さんは口元を緩ませます。

「ここから山ほど符号(指し手を数字などで表したもの)を言ってやろうと思ったのに」

「結局は勝たれたのでしょう?」

「なんだ。やっぱり神通力が使えるじゃないか」

「言緒さんを見ていれば、なんとなくわかるだけです」

「私は君を見ていても何もわからないよ」

「興味がないからでしょう」

窓掛けの隙間から、ひと筋明かりが差しています。
言緒さんはそちらに目をやり、ぽつりとこぼしました。

「そんなことも、ないんだけどな」

投げ出された手を布団に戻そうとしたら、指先まで熱いのでした。
そこに流れる血のいろは生命そのものです。
駒に魂を宿す指先です。

「勝っても負けても、わたしはどちらでもよいのです。それより早く治して、また元気に将棋を指してくださいませ。長生きして、ずっとずっと将棋を指していてくださいませ」

「ずいぶん寛容だな」

「諦めただけです」

咳混じりの笑い声が漏れました。

「それはね、むしろ『諦めが悪い』と言うんだよ。君はいい将棋指しになれる」

わたしの手を握り返す力は存外強く、これならばすぐに熱も下がるだろうと思いました。