「……何してる」

目を覚ました言緒さんが身じろいだので、蕎麦殻の(くく)り枕が、さり、と音を立てました。

「袖口が傷んでおりましたので、奥口にして縫い直しております。将棋は袖口が目立ちますから」

「そうではなくて━━」

咳をした拍子に、言緒さんの額から手拭いが落ちました。
高くなった陽が差し込んでいて、まぶしそうに目を閉じます。
わたしは窓掛けを引いてから、手拭いを盥の水に浸しました。
ちゃぷ、という水音に、言緒さんの弱々しい声が重なります。

「ずっとここに?」

「はい」

深夜、内弟子の男性に担がれるようにして、言緒さんは戻ってきました。
終局後の酒宴で昏倒したとのことです。

「お加減いかがですか?」

「……悪い」

「でもお熱はだいぶ下がったようですね」

絞った手拭いを瞼まで覆うようにのせると、言緒さんはふうっと息をもらしました。

「毎日あのような板の間で寝ていたら、お風邪を召して当然です。お布団だって使ってもらえないと、臍を曲げてしまいますよ」

返事がないのは拒む意であるのか、眠ってしまったのか。
答えを得ることは諦めて、わたしはふたたび針をとりました。

「水」

乾いた口からかすれた声が聞こえて、わたしは針を置いて言緒さんを起こしました。
差し出した湯呑から半分ほど水を飲むと、また布団に沈もうとします。

「もう少しがんばって、お粥を召し上がりませんか?」

「いらない」

「何か召し上がらないと、いつまでもよくなりませんよ」

しぶしぶ起きあがった言緒さんの背中に半纏をかけ、茶碗を手渡しました。
木の匙でふた口ほどお粥を口に含むと、深いため息をつきます。

「気持ち悪い……」

「朝からお熱がありましたのに、無理してお出かけなさるからです」

「君は神通力か何かの使い手なの?」

「まさか。髪を直したとき、頭が熱かったので」

確かめるように、言緒さんは髪の毛の中に指を差し入れます。

「知ってて、何も言わなかったんだ」

「お止めした方がよろしかったですか?」

「いや」

止めたところで聞くひとではないのです。
対局に向かったのだと聞いて、尚更だと思いました。

「せめて酒宴だけでもお断りできればよかったのに」

「付き合いに応じないと、対局をつけてもらえない」

会派に所属し、段位を認定されても、将棋指しに立場を保障するものは何もありません。
権威ある先生に新聞社と取り継いでもらわなければ、棋戦に出ることさえかなわないのです。

「本当は酒なんて飲みたくないし、人付き合いも面倒くさい。仕事もしたくない。私は、ただ将棋を指していたい」

子どものように駄々をこねる姿は、将棋盤に向かう姿と重なって見えました。
将棋はもちろん勝つために指すのですが、対手はただの敵ではなく、一局の将棋を作り上げる同士でもあるのだそうです。

「将棋がしたい。強いひとと指したい。それで、もっと強くなりたい」

将棋という広く深い空を、自分は、自分たちはどこまで行けるのだろうと遠く手を伸ばす。
それはまるで星を掴もうとする子どものように、愚かしく、純粋です。

対して賭け将棋は、儲けることだけを目的とするもの。
自分の棋力を偽ったり、八百長を仕組んだり、盤外での騙し合いも勝負のうち。
なるほど言緒さんには向いておりません。