その1
面川家の畳部屋


終戦後間もない昭和30年はじめ…。
今の群馬県南部に位置する某市へ参入された、旧M町に面川(おもかわ)屋という老舗の金物問屋があった。

この地では名家として、江戸時代後期に建造されたという立派な屋敷が、小山の中腹から、まるで町中を見下ろすかの厳粛な佇まいを放ってきた。

屋敷の北西側には、3室が間続きとなっている、約30帖の畳部屋があった。
この壮大な畳部屋は、4年に一度、立秋の時期になると、大掛かりな畳替えを挙行するのが慣例となっていたのだが…。

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面川家9代目当主であった伊太造が30歳を迎えたころのある時期を境に、廊下側に位置する部屋の一番隅に備えられた広い床の間のひざ元にある畳一枚だけは、畳替えを行なわなくなったのだ。

その為、10年もすると床の間下の畳一枚はどんよりと黒すみ、一目でそこだけくっきりと浮かびあがっているのがわかるほどになった。

屋敷を訪れた客人は、いやでも目に入るその畳を気味悪がり、いつしかあの畳の下にはよからぬモノが埋まっているという噂が広まっていった。
やがては、その畳に腰を下ろした客人は不治の熱病にかかり、三日三晩のたうち回り、目の玉を腐らせて狂い死にするといった恐ろしい影話まで行き交うようになる。

そして時はさらに流れ、昭和50年代後半の某年…。
それは、伊太造の跡を継いだ面川家10代目当主となってまだ間もない保憲(やすのり)が所帯を持ってから二年目の秋のことであった。

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そのころには、面川家は因果深き怪屋敷と揶揄する住人は少なくなく、世間から奇異の目を向けられていた。

その年…、4年毎の畳替え作業の時期が近づいていたのだが、これまでずっと工事を請け負ってきた畳職人が後継者を欠いて他界したため、保憲夫妻は新たに畳替えを請け負う職人を探していた。

とは言え、伝統的な藁床を敷き詰める施工が求められるため、工事を頼める畳屋は限られていた。
保憲は何人もの人を介して、やっと埼玉北部の畳職人にたどり着く。

さっそく保憲は、その畳職人、小原源吉を屋敷に呼び、畳部屋を検分してもらうことにしたのだが…。

だが彼は、小原が果たして畳替えを請け負ってくれるか、不安を抱いていた。
実際にあの黒ずんだ床の間に面した一枚の畳をその目で見れば、なぜそこだけ畳替えから除くのか、その理由を問われるのは明らかだったから…。

そして面川保憲と妻の三好は、彼から聞かれればそのワケを打ち明けようと決心していた。
それは、若き日の父伊太造による、ある因果深き所業を晒し面川家の恥部に触れることでもあったのだ。