今日は、はじめは起きるのが遅い。塾、行かなくていいのだろうか。

そう思いながら、はじめの母親のタンスから洋服を取り出す。毎回かわいいのを選んでいるはずなのに、はじめは何も褒めてくれない。これがかえでだったら、ボンって顔赤くするんだろう。

そう思うと悲しくなってまた息をつく。スカイブルーのすてきなワンピースに着替えてリビングへ行こうと、廊下の先のドアを開けた。すぐそこにはじめの姿があってびっくりした、

「あ、おはよう」

はじめを見るだけですごく嬉しくて、顔が笑顔でいっぱいになる。朝からカッコいいな。

「おっ、おはよう。今日はゆっくりなんだね」

私は特に予定もないし。はじめが起こしに来てくれるのを待っていたなんて、とても言えない。

「今日は塾休みなんだ。どうする? 今日の月の入りは……」

ちょっと、向田さんに聞こえちゃうよ! 
バレたら月に帰らなきゃいけないんだよ。もうちょっと慎重に……。そう言いたくて、自分の口に人差し指をあて、ドアの中に入り、はじめに手招きする。

「はじめ、向田さんに聞こえたらまずいよ。監視されてるんだし」月の宮殿の監視は執拗だ。地球からの侵略になぜかものすごく怯えた民族なので、監視に余念がない。

地球人は悪い人ばかりだと教わったけど、ここにはそんな人なんて皆無のように思える。

みんな優しくて、すてきな人ばかりだ。月に帰ったら地球人は優しいってみんなに教えなきゃ。

はじめの提案で、としょかんというところへ行くことになった。なんでも歴史の本がたくさんあるらしい。でんしゃにも乗れることになり、嬉しくて仕方がなかった。

「あれ? はじめくんとゆめちゃん? おはよう!」

きっぷを買おうとしたところで声をかけられてビクッと震える。
楽しかった気分も、かえでの天使の声でそれも台無し。相変わらずのかわいさ。こりゃはじめが好きになるのも仕方ない。


「おはよう。かえでもでかけるの?」

「うん、M区の図書館で勉強。あそこが一番落ち着くから」

私のモヤモヤをよそに、一緒に行こうよなどと話すはじめ。まあそうなるよね。はじめはかえでのことが好きだし、かえでも、きっとはじめのことが好き。いっそのことくっついてくれた方が、あきらめられるのかもしれない。

裏を返せば、かえでは自分と同じ気持ちを抱えているだろうから、意外と気が合うのかも。そう思ったら不思議と笑顔になった。

「うん、私初めていくから楽しみ。一緒にいきましょう」

自分でもびっくりするくらい、素直な言葉だった。はじめも嬉しそう。

電車の乗り方はいろいろ手順があってややこしい。何とか教えてもらいながら、三人で電車に乗り込んだ。

「ゆめちゃんって、どこ出身なの?」

月からきましたって言ったらおしまいだからえっと、ほかに知ってる地名っていえば。

「ああ、えっと……三重県の伊勢市です」

えっ?? とはじめとかえでが同じような顔をしてこちらを見た。だって、神様のいるところくらいしか知らないもの。


「あ、ね、ゆめはけっこうなお嬢さまで、電車に乗ったことほとんどなくて」

はじめがフォローしてくれたのが素直に嬉しかった。

「そうなんだ。何か困ったことあったら私にも声かけてね」

何も疑いのないその美しい瞳が怖い。はじめに好かれているかえでが、心底羨ましかった。

「ありがとう、うれしいです」

ちょっと無理して笑顔を作る。かえでの素直さが心に刺さってチクチク痛む。美しい清らかなかえでの心。もう自分はこんな風にはなれないな。

はじめのすべてを自分のものにしたい。特別な目で見てほしい──
いまさらどうすることもできないくらい大きくなった気持ちを抱いて、図書館へと歩いていく。

目的地の図書館は、ものすごく素敵だった。月には絶対にない建築様式。建物自体が芸術作品であるかのよう。
ステンドグラスの美しさに、思わず立ち止まる。

学習室は二席しか空いていないようなので、遠慮してそそくさと歴史書コーナーへ歩き出した。

勉強も楽しいけど、せっかくならここの蔵書をよんでみたい。はじめと、かえでもふたりのほうがいいだろうし。協力できたかな少しは。
そう思いながら、ゆめ歴史書のコーナーへ足を運んだ。
歴史書のコーナーは、中二階へ上がってすぐのところにあった。めぼしい本を一冊手に取り、近くのソファに腰掛ける。

本を読む。その行為そのものを楽しむようにできたこの建物。雰囲気を楽しみながらも、歴史書の世界に入りこんで読みふけった。

どのくらい読んでいたのだろう。はっと顔を上げ時計を探すと、11時40分をさしていた。

本を元のところに戻すと、喉の渇きを覚え、何か飲み物が売っていないかとキョロキョロ探しながら、集合場所の図書館の入り口へ向かって歩いていた。

「あれ?」

後ろから小さい声がした。振り返ると、昨日助けてくれた人がそこに立っていた。かっこいいけど、目つきが悪いな。

「今年の親戚の子だっけ?」
「はい、えっと……」
「あぁ、突然ごめん。青山夏樹です。今日は勉強?」
「坂井ゆめです。はじめとかえでと三人で一緒に来たんですけど、ちょっと読みたい本があって別行動してました」
「そうなんだ。今から昼メシ?」
「はい」
「いいよ、タメ口で。同い年でしょ? はじめたちとは? 一緒に?」

話し方や仕草を見ると、夏樹は見た目よりもいい人そうにみえた。

「12時に入り口で待ち合わせ。喉が渇いたから、なにか飲み物買おうと思って」
「外に自販機あるよ。こっち」

そう言って、夏樹は手招きをした。
入り口を出てすぐのところに飲料の自動販売機があった。買い方がわからず戸惑っていると、夏樹が買い方を教えてくれた。「お嬢さまなの?」
「はは、ほんと。世間知らずでごめんなさい」

夏樹と木陰のベンチにふたりで座る。ここなら入り口も見えるしはじめとかえでが来たら気がつくだろう。お茶を買ったはいいが、開け方がわからない。

「……これ、どうやって開けるの?」
「はあ? すごい箱入り娘だな」

夏樹は文句を言いつつも、蓋を開けてくれた。ゴクゴク飲むと、冷たさが喉を通って渇きが癒えていく。

「ぷっはぁ! 便利な入れ物だね」

続けてゴクゴク飲んでいると、夏樹にじっと見つめられた。

「どうかした?」
「いや、お前も俺と同じかなと思って」

同じ? と聞き返すと、
「鈍い人を好きになると辛いよな」とこたえた。

「えっ……なんで……」
「お前は、はじめのこと好きなんだろ? ニブチンのあいつにヤキモキしてんじゃねぇの?」

なんで分かったんだろう。まだ夏樹とはほぼ初対面なのに。

「俺はかえでが好きなんだ。あいつの鈍さも天下一品だから」

少々の脳内混乱を乗り越えつつ、話についていく。

「そうだね。辛いこともある……かな。でもはじめが、嬉しそうにしてたら私も嬉しい。どうせ来週には家に帰るから、少しの間だけだし。夏樹には悪いけど、せっかくならかえでとの仲も協力してあげたいと思ってる」

ニコッと笑いながら夏樹を見ると、驚いたような顔をしていた。「応援されたの、初めて。誰かに言ってもほとんど否定されたから」

そう言って悲しそうな顔をする。たしかにイギリスの大学行って、戻ってこないなんて言われたら、親はびっくりするだろうな。

「そうか? かえでならできると思ったけど? 見た目とは違うだろ、心の中は」

そこまでいうつもりじゃなかったけど、かえでの悲しそうな顔を見たら、言わずにはいられなかった。

勉強する姿勢をみていると、なにか他の目的があるような気がしていた。目先の目標なんかじゃない、もっと大きな将来の夢のために勉強をやっているのだろうと。貪欲で、燃えるような決意が、あのかわいらしい体から溢れている。

天使の見た目とは違う。心の中は幕末の志士みたい。それに気がつくと、もっとかえでのことが知りたくなって、いつのまにか好きになってた。だからはじめのことを好きなことに、すぐ気がついた。

隣の席で見ていると、痛いほどそれを感じる。俺のことなんかまったく視界に入っていない。だから告白はきっかけにすぎなかった。フラれるのは当たり前。でもこうして今の状況になったのだから、告白はある意味成功だったと思う。「青山くん、ありがとう」

かえでは少し涙を浮かべていた。

「やりたいこと、やろうぜ。失敗したとしてもさ」

「私、失敗しないので」

どっかで聞いたようなセリフを吐いて、スタスタ歩いていく。他のみんなには見せない一面が見られたような気がして、嬉しくなってかえでを追いかけた。

「俺も志望校変えようかな」
「どこに?」
「イギリスのK大学。獣医学部あるだろ?」
「獣医学部ならAレベル(イギリスの大学受験用統一試験)受けなきゃ。なんだかんだ準備に2年はかかるよ」
「やるよ、かえでが行くなら」
「勝手にしたら」

かえでの顔がまたちょっと赤くなる。ダメとは言わなかったな。図書館に来たかいはあった。