「ごちそうさまでした。またね、お髭さん」
決まりの挨拶で文句も聞かない態度を前に追求さえ適わず、後ろ髪を引かれる様子も無い。颯爽とタクシーへ乗り込む姿が、幻でも見てるのか、と思えるほどに忽然と消え去る。
全く隙のない彼女を目にしながら、何故か些細な出来事の一部分に弱さを感じ、理由を付けてまで幼い子どものように、せがんだ姿が胸に小さな歪みを作った。
それからの一ヶ月、週に一度の割合で彼女からメールが届くと、行き先は必ず動物園だった。
互いの距離が徐々に縮まり、写真の枚数も増え、色々な表情を知る頃。
梅雨の終わりの湿気た空気が肌に纏わり着き、園内には鬱陶しい午後の陽が差していた。
日傘も持たずに歩く背後を追い、立ち止まる合間にカメラを構え、夢中でシャッターを切る。
ふと、彼女が再び足を止めたところで防護柵に寄りかかり、傾いた身体が自然に手を投げ出す。
その拍子に水滴が甲の上へ落ち、直ぐに大粒の雨に変わって弾いた。
気付いた時には彼女が素早く此方の手を引き、駆け出した足が近くの休憩所へと潜り込む。
「暫く止みそうもねぇな……」
曇り空を眺めながら、椅子に腰掛けて足を組み、煙草を口にしたまま、頬杖を着いて目を伏せた。
軽い眩暈を覚えた額に、冷たい感触が広がり、優しげな声が流れて来る。
「それ飲んだら帰ろ。多分、軽い熱中症だよ」
当てられた飲料を黙って受け取り、二口飲んだ後で視線を落とした。



