この日は残業もなく終業を迎え、俺たちは駅から離れたお店で食事をすることにした。もちろんその理由は会社の同僚に出くわさないためだ。

席について注文を終えた咲苗は、こんな質問を俺にしてきた。

「あたしたちが最初に出会ったのはいつか知ってます?」

「最初? 最初って言ったらたぶん、一年前の新人歓迎会だな」

そう回答する俺の目を咲苗はじっと見る。

「正解! ではありまっせ~ん」

首を横に振る咲苗の表情は残念そうだった。

「違うの? その前に社内で見かけたりはあったかもしれないけど、会話らしい会話をしたのはそのときだろ? 少し酔っぱらってはいたと思うけど」

「正解は、一年と半年以上前ですね」

「それって咲苗が入社する前じゃん」

「そうです。あたしの就活中です。最終面接の日なんですけど、雨が降っていて足を取られて転んだんです。そのときに声を掛けて助け起こしてくれたのが先輩でした」

「あっ、あったな。そんなこと! あのときの子だったのか。それで俺に惚れてしまったという……」

「違います!」

「違うのかよ!」

「そのときは下心のある人が声を掛けてきたのかと思ってました」

「ひどいなっ!」

今なら笑い話だけど、その当時に聞いたら涙ものだ。

「でも、半分は感謝してましたよ。転んで投げ出した傘が通る人に踏まれて壊れちゃったんです。そしたら自分の傘を差し出して「使いな」って言って、走っていっちゃいました」
いつも時間ギリギリな俺はすぐにその場を離れたことを思い出した。

「そのときの人が同じ会社だって気付いたのは入社一年目の忘年会でした」

「なんで新人歓迎会で思い出さなかったの?」

「ちゃんと顔を合わせて話さなかったのもありますけど、先輩は普段はあたしと同じでメガネかけてないじゃないですか。忘年会のときにメガネを掛けているのを見て思い出したんです」

「あぁ、メガネね。あれはファッションメガネというか、ブルーライトカットのメガネなんだ。俺は裸眼で1・5くらあるから」
「なるほど。そうやってあたしから隠れていたわけですか」

「隠れてない!」

「それから、先輩という人間の存在を認識したあたしは、視界の端にいても気が付くようになって、それを見ているうちに先輩の人間性を知っていったんです。そして今に至ります」

「今に至りますって……。ひと目惚れとかっていうロマンスではなかったな」

「あたしはそんなに軽い女じゃありませんよ」

澄まし顔でストローを咥える咲苗は可愛い。話ながらたびたび浮かんでくるそんな『思い』を、俺の『想い』が何度も打ち消していた。

「面接のときまではメガネだったので。サクを見たことがあるって思ったのは、そのときのあたしを覚えていたからだと期待したんですけど、さすがにそんな甘くはなかったですね」

少しだけ口を尖らせるそのしぐさも……。あざとさの感じない彼女はかなりの強敵だ。

「ロマンスではありませんが、それはこれからです。先輩はロマンスな展開はお好きですか?」

「ロマンスかぁ。ロマンスよりはファンタジーのほうが……」

「ファンタジー?」

おっと、口が滑ったと思ったときには手遅れで、咲苗がそのことに突っ込んできた。

「ファンタジーって剣と魔法とか亜人とか妖異とかってやつですか? やっぱり先輩はそういうのが好きなんですね」

あぁこれはどう転ぶんだろうか。モテ期を奪ったかもしれない俺の趣味。このことを咲苗はどう思うのか? これで距離を置かれても、それは振り出しに戻るだけだ。

彼女の好意に対して一歩二歩と引いていた俺の心ならばダメージはない。ほんのわずかしか……。

そう覚悟を決めていた俺の心の幕に咲苗が手を掛けたと思えたのは次の言葉を聞いたからだ。

「あたし、大好きなんです。ファンタジー小説や漫画が。先輩が書店でそのコーナーに立っていたのを見掛けたことが何度かあったんです。買ったわけじゃなかったので、どうなのかなぁって思ってはいたんですけど」

咲苗は手を掛けたその幕をくぐり、俺の心に踏み込んで来た。意図しない無造作なその行為に俺は対応できず、彼女との距離がぐっと縮んだことを実感する。

「どうしたんですか?」

だから俺は小説を書いているという自分の趣味を咲苗に話してしまった。

「うん、ライトノベルの特にファンタジーが好きなんだ」

咲苗の表情が一段明るくなったことで俺は自分から一歩踏み出した。

「自分でも小説を書いているんだ」

上目遣いで咲苗を見ると、遅ればせながら『調子に乗るな!』という抑制が働き、俺の心は不安に駆られる。

「ホントですか?!」

このときの咲苗の瞳にはまるで星が瞬いているかのようだった。それほどのプラスの言動により俺の心の抑制は緩み、彼女に対しても心を開いて小説の話題で盛り上がった。

「そうだ、咲苗とのことを題材に書いてみようかなぁ」

「あたしとの出会いをですか?」

「転んだ女の子を助け起こしたってところは同じだけど、その相手がこれから受ける会社の社員だとわかって、頑張って入社するっていう……」

そう語る俺を見る咲苗の目が冷ややかだった。

「面接の当日にひと目惚れして、入社するために頑張るって。ひと目惚れしなくたって頑張りますよ。それに動機が不純です。ありきたりです。リアリティがありません。執筆歴どれくらいなんですか?」

「書き始めたのは中学に入ってから。大学三年くらいまではWEBに書いてて一度やめた。一年前に復帰てからは公募狙いで書いてる」
「年数はそれなりですね」

「俺はファンタジー専門なんだ。恋愛モノは書いたことないんだよ」

「そうでしたか。でしたらこれからの経験が生かせますね。わからないことがあったら相談してください」

「それって、君は恋愛豊富な百戦錬磨の魔性ってことを言ってるのか?」

「いいえ、恋愛ラノベの読書量が豊富なだけです。そして、ファンタジーもいける口です!」

ラノベ好きという意外な共通点が俺と咲苗の距離を縮めたのだった。

楽しい時間を過ごしたなと、真紀とは違う楽しさの余韻から俺を引き戻したのはその真紀だった。

送られて来たメッセージは『金曜日の夜にご飯しない? 先日つきあってくれたお礼に御馳走するから』というもの。

この日は咲苗との約束があるのだが、それをそのまま返すのはさすがにまずいと思って俺は少し濁した文章を書いた。

『その日は同僚と約束があるんだ。来週の仕事後ならいつでも空いてるよ』

『わかった。また連絡するね』

先日のお礼とあったように、先の約束があるというのは嬉しいことだ。こう考えると胸が高鳴るのだが、同時に不安も過った。それは、次が終ればその先があるのかということだ。