その後も着々と、鬱蒼とした獣道を進んでいきました。

お天道さまが山の向こうへ沈みかけ、辺りが夕焼けに染まる頃、先導していた義嵐さまからお声が掛かりました。

「暗くなると身動きが取りづらくなる。
ここらで夜を明かすとしようか。」

義嵐さまの後に続き、ようやく獣道を抜けます。
そこは一部の木々が人の手によってならされた、開けた山道となっていました。

少し遠くに視線をやれば、小さなお社を発見しました。
あれもまた、狗神さまを祀るものなのでしょう。


「…あの、仁雷さま。もう大丈夫です。
ありがとうございます。」

そう声を掛けると、仁雷さまはその場にそっと、わたしを下ろしてくださいました。

ずっと抱えて疲れたろうに、顔には全くその色が見えません。「さすがは山犬さま」と感心してしまいます。

「今夜はあの社に泊まろう。」

「えっ。」

仁雷さまの言葉に思わず声が出てしまいます。
だって、狗神さまを祀るお社に寝泊まりするだなんて…なんだか罰が当たってしまいそう。

「気にするこたないよ早苗さん。
おれ達は狗神様のお使いだから、おれ達が良いと言えば良いのさ。
狗神様のお山にはこういった無人の社がいくつも点在してるから、巡礼中はそれらを宿代わりにしてく。」

「そう、なのですか。」

てっきり野営をするものと思っていたから、夜風をしのげるならこれほどありがたいことはありません。
義嵐さま、仁雷さまの後に続き、中に入る前に一度手を合わせてから、わたしはその小さなお社にお邪魔することにしました。


お天道さまがすっかり沈んで夜になると、辺りは暗闇に包まれます。
お社の中に三人が入ると、多少の窮屈さはありますが、もし一人きりだったなら木の葉の音や獣の鳴き声に、心細くなっていたことでしょう。

義嵐さまが灯してくださった蝋燭の灯りと、大きな火鉢の暖かさが、山歩きの疲れをじんわりと癒やしてくれます。

「………ふぅ。」

思わず漏れた溜め息に、わたしはやっと“今まで自分がひどく気を張っていた”ことに気付きました。

「初日お疲れ、早苗さん。」

そう気さくに声をかけてくださるのは義嵐さま。

「あっ、いえ…道案内ありがとうございます。」

「なんのなんの、お役目だからね。
…それにしても早苗さんって、今までの娘達とはまた一風変わってるよな。」

不思議そうにご自身の顎を撫でてらっしゃいます。
変わってる?わたしが?

「年の割に我慢強いというか。普通、望んでもない旅に連れ出されたら、不満の一つも言いたくなるもんだろう?」

「不満…。」

そう問われれば、心から喜んで巡礼に向き合っている…というわけではありません。
狗神さまへの信仰心もありますが、生贄となった以上、犬居の娘である以上、これが避けて通れない道ならば、

「これがわたしのお役目なら、頑張らねば…とは思います。」

今までの犬居の娘達は、どんな気持ちで旅に臨んだのかしら…。

わたしの答えに納得なさったのか、義嵐さまは少し目を細めて微笑まれました。


「……早苗さんは、」

ふと、壁にもたれて休まれていた仁雷さまが言います。

「家族が恋しいか?親や、きょうだい達。」

「……。」

その問いは、いささか、いじわるに思えました。もう戻れないことが分かっているのに…。

…ああ、でも、わたしは不思議と嫌な気持ちにはなりませんでした。

「母は既に亡くなっていますし、気心の知ったきょうだいもいません。父は、わたしに関心がありませんでした…。」

“星見さま”は、血は繋がっていようとも、あくまでわたしのお嬢様。「姉」と呼ぶことは恐れ多くて、気が引けてしまいます。

「…あ、ご心配なさらないで。
巡礼にはきちんと臨みます。幼い頃より、狗神さまを心の支えにしてきましたもの。」

わたし達の豊かな生活を守ってくださる狗神さま。つらい時、苦しい時、祈りを捧げることで気持ちが楽になりました。
母から教えられたこと…。母が亡くなった後も、ひとりぼっちのわたしが踏ん張って来られたのも、狗神さまの存在のおかげだと思うから…。

犬居家は大昔から、近親間での婚姻を「本家」として、繰り返してきた歴史があります。
本家の純血の娘と比べるとどうしても、外山(そとやま)から来た妾が産んだ子どもというのは異質に映り、冷遇されてしまうのでしょう。

わたしが他の娘達と違って見えるのはきっと、さほど“お家”というものに愛着を感じていないから…。


「…俺たちはこれまで、何人も犬居の娘達を巡礼の旅に導いてきた。皆口を揃えて言うんだ。“家に帰りたい”と。
中には目を盗んで逃げ出す者もいたけれど…、最後には死んでしまった。」

仁雷さまの口にした“死”という重い言葉に、息を呑みます。
けれどそれはわたしを脅すためでも、まして意地悪するためでもなかったのです。

「早苗さん。
どうか、俺達を信じて離れないで。
貴女をこの旅で死なせはしない。決して。」

どれほどこの旅が危ういものか。
そして、どれほどお二人が、犬居の娘を想ってくださっているか。
それをひしひしと感じるのです。


ふと、義嵐さまが手を軽く叩きます。

「さてさて、明日は早くに発つから、そろそろ床に就くとしようか。」

「………あっ、は、はい…。」

横になろうと板の間に手を付きましたが、その冷たさに思わず引っ込めてしまいました。
わたしの様子に気付き、義嵐さまがなぜか得意げに言います。

「仁雷、一晩早苗さんの枕になっておやり!」

「おい!義嵐っ!」

間髪入れず、仁雷さまが吠えます。
わたしもそんな大胆なことをする勇気はありませんので、首と手をパタパタと横に振りました。

「秋口の夜の隙間風は体に悪い。
大事な娘御のことを思えばこそじゃないか?あ?」

「…………………。」

長い長い思案の後、なんと仁雷さまがわたしの近くに横たわりました。

「……枕、にはなれないが…、隙間風避けくらいにはなれる。」

「!」

わたしの体に沿うように、仁雷さまの体が壁になってくださっています。
殿方の隣で寝るなんて生まれて初めてのこと。けれど、そのご厚意がとても身に沁みて、わたしはまたお言葉に甘えてしまう。
仁雷さまはお犬ですから、元々体が温かい方なのでしょう。直接触れずとも、その温かさを感じることが出来ました。

「…あ、ありがとうございます。
とても…安心いたします。」

「…………ウン。」

そうして、巡礼最初の夜が明けていきました。