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「…俺がこれまで抱いていた、風習への疑問。
それを変える勇気をくれたのが、秋穂さんと…義嵐、お前だった。」

仁雷さまの呼び掛けに、義嵐さまの肩がびくりと震えます。

そのお顔は浮かないまま。義嵐さまも、わたしや山犬達と同じく、仁雷さまの襲名の件を知らなかったのです。思うところは、山ほどあることでしょう…。

「…すべては、俺の決心が付かなかったせいだ。義嵐…そして、早苗さん。本当に申し訳ない……。」

深く深く頭を下げる仁雷さまに対して、

「………謝るのは、仁雷じゃあないだろうが。」

義嵐さまはとても冷たい目付きで、主神である狗神様のことを睨み上げました。

常に優しく温和だった義嵐さまの、見たこともない恐ろしい表情。それは彼が必死に押し殺してきた、本当の心の表れでした。

「……“伏水様”を理由に、数多の娘達を(ほふ)ってきたのは、爺さん…お前じゃないか。
おれがお使いの立場でなかったら、お前の喉笛を真っ先に噛み切ってやりたいよ。お前が……秋穂さんにしたように…っ!」

山犬の声混じりに唸る義嵐さま。
しかし狗神様は、その覇気に気圧されることはありませんでした。

【…弁解はすまい。
秋穂から犬居の血が嗅ぎ取れなかった。そして、我への信心だけではなく、愛娘と…愛する男を想う心があの者を動かしていた。

…その事実は、我が長年守り続けた風習の崩壊に等しく、…我にはそれが、何より恐ろしかったのだ。】

狗神様は、目を背けませんでした。
この上なく悲しげな色を湛えて、後悔の色を滲ませて、義嵐さまを見つめるばかり。

その姿を目の当たりにした義嵐さまから、怒りに囚われていた義嵐さまから、次第に勢いが失われていきました。
腕を下ろし、声を震わせて、

「……おれは野良で、あんたと血の繋がりはないよ。秋穂さんも犬居の血は持ってなかった。でも、確かにあんたへの信心はあったじゃないか……。

たかが血に何を拘るってんだ…畜生…。」

義嵐さまはとうとう、力無く項垂れてしまいました。

「……でも、あんたはいずれ死んでくれる。代替わりして、仁雷が次の狗神になる。最高じゃないか…。」

“最高”と仰る義嵐さまは、今にも泣きそうなお顔をしています。それがただの痩せ我慢だということに、気付かぬはずがないのに。

気付けばわたしは、義嵐さまの下ろされた手を、離さぬようにしっかりと握っていました。

「義嵐さま…。
きっと母様は、義嵐さまが身を挺してわたしを護ってくださったこと、とても感謝しています。そしてわたしも…。

母様の願いを叶えてくださって…、
本当に、本当に、ありがとう。」

義嵐さまの悲しみに沈むお顔をなんとかしてあげたい。その一心で、わたしは微笑みました。

けれど義嵐さまは、

「早苗さん……。
ああ、くそ、本当に…似てるなぁ…。」

我慢が堪えきれなくなったように、涙を溢れさせてしまったのです。

漏れ出る嗚咽。手の甲で拭えども、拭えども、溢れ出る涙。
濡れた琥珀の瞳が、わたしの顔を寂しげに、そして愛おしげに見つめます。

「…おれはずっと、秋穂さんとの子どもが欲しかったんだ。
秋穂さんに似て、美人になるだろうって…。それはまさに…君なんだ…。
今だって…喉から、手が出るほど…。」

その先は、嗚咽にかき消されて言葉にすることは叶いませんでした。
けれど、思いを途切れさせたくなくて、言葉の先をわたしが引き継ぎます。一点の曇りもない本心で。


「わたしはもう、義嵐さまの娘です。」


言葉が、想いが届き、義嵐さまは一層涙を零しました。
けれど、確かにわたしに伝わる声で、


「……ありがとう、早苗………。」


そう、名を呼んでくださったのです。