本作について



もうずいぶんと昔の映画になるのですが、私の好みなクリエーターであった石井聰亙監督の『水の中の八月』を初めて観た時、戦慄しまして…。

舞台は福岡ってことが、まず完璧にフィット。
もう、映像から飛び出してきそうな、熱に反応する水(⇒蒸気のモワ~ッって感じ)が匂ってくるようでした。

そこでの真夏の今現在(当時のリアル今!)、ココ日本での実際とはさりげないニアミス感が漂ってる漠な未来と過去…、以前とその先を無意識の中で抱き抱えながら、水との間で神聖な何かを交わ遂げた一瞬って…!

今回アップした『遠き記憶を染める色』は、この映画で受けた衝撃とそこから派生したイマジネーションによって産まれました。


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本作『遠き記憶が染める色』で、自分なりに描破したつもりの甲田サダトが辿り果てた水との関係は、言わば帰還本能の目覚めであったと…。
ただし、そこへの到達点では自己内面の崩壊、不完全リバースという過酷な定めを背負ってしまうのでして。

母なる海、遂げ辿いし自己宇宙…、意識の卵…、これらの断片的DNAレベルたる深層意識を触発されて浦潮に呑まれた”以後のサダト”が、自身へ、人間社会における人間としての愛と現実を日々、”再度”直面させることは、神から迷子の境遇を強いられたことに相当すると、そう前提を敷きました。

で…、ほぼ意識なく呼吸してる人間のそんなあたり前な営みさえも、凄まじいほどエネルギーの転換を経ていたと悟った時…、彼は途方もない絶望感をたたきつけられたはずだと…‼

けれど、”人間”はそれを絶望とはできない。
しちゃったならニンゲンでしょ…、となる訳で。
なぜなら、この人間社会で生を受けた限りは、そのルールに従って一生を全うしてゆかねばならないから…。


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水を介してわが身を一刀両断された狂わんばかりの”逆帰還”は、サダトにとって、もう一つ存在した愛のカタチを貪る自分との戦いに、モロで相当しました。

流子は”それ”を理解できた。
サダトを通じて…。

そして彼女は”そのこと”を消化し、自己の中で昇華させることも成せたのです。
その様については、本作品のエンディングで投影的、抽象的(エロスモード添えで💦)に描き添えたわけで…。

そこでの流子とサダトの違い…!

二人の微々な確たるその”何か”こそ、自分自身で脳裏に映る風景を染める色…、そこを決する意識が分かれたと…。

もしかしたら、サダトには、自らの”下半身”を切断した時に流れ出た己の血も、神聖な海の紺碧色に映ったのかもしれません。
しかしながら、流子にはしっかりと赤…、真っ赤だったのです。

サダトとはそこにおいて対照的な隔たりが存在しながらも、愛する彼と永遠に結び付く到達点を得た上で、流子が攻撃性をも帯びたポジティブ源で自己からかくエネルギーが現出できたのは、甲田サダトが”あの事件”で失ってしまった、この人間社会で通用する”色”を許容できる器というものをしっかり内包していたからであると…。

本作において、筆者はかく残酷な線引きを用い、終論へ導いた次第です。



遥陰ーハルカカゲー