“ごめんなさい。私と別れてください。”

そう彼に告げたのはちょうどニヶ月前のことだった。

彼とは私が初めて就職した
大手化粧品会社で出会った。

彼の名前は皆藤竜海(かいどうたつみ)。

30歳の若さで専務という肩書、それでいて
端正な顔立ちはまるで物語から抜け出した王子様のようだった。それでいて普段はポーカーフェイスでクールな彼に社内では女性社員の噂の的だった。彼にアプローチして敗れた女性社員は数知れず。

かという私も隠れファンの一人だった。

ファンといっても他の人達のように
積極的にアプローチできるわけもなく、
ただたまに
エレベーターや廊下であの彫刻のような横顔
を少しでも拝めたらラッキーくらいにしか思っていなかった。

しかし、その雲の上のような存在と距離を縮めるきっかけとなったのが私が入社して1年ほど経ったある出来事からだった。
私は会社で体調を崩してしまい、仕事を早退して会社を出たところ持病の喘息の発作がおきたのだ。
咳が止まらず、会社の前でひとり蹲っていた。
仕事で忙しい午前中のオフィス街では皆、苦しんでいる私を横目に通り過ぎていく。
しかし、一人だけ立ち止まってくれた人がいたのだ。

“きみ、大丈夫?”

そう心配そうな声色で問い掛けながら
わたしの顔を覗き込んできた人物に
咳き込みながらも心臓がドキッと跳ね上げた。

その吸い込まれそうなほどの漆黒の瞳の主は
皆藤専務だったからだ。
私は心の中でパニックを起こしながら、
尚も止まることのない咳で大丈夫ですと
返事の代わりにコクコクと頷くことしか出来なかった。

“大丈夫。きっとすぐに治まるから”

普段、冷たい印象の彼とは
想像できないほどの
優しい声色でそう囁きながら
私の咳が治まるまで
ずっと背中をさすってくれた。

その手がとても温かくて優しかったことを
いまでも覚えていて私の胸を強く締め付けるのだけど。