蓮は眉を下げ、小さく息をついた。

 家も家族も恋しいはずだ。心配なはずだ。

 尤も、家族の方は“小春は友人の家へ泊まりに行っている”と信じ込んでいるのだが。
 ……そして、それは今から奇しくも現実となる。

 ぽん、と蓮は小春の頭に手を載せた。

 小春ははっと我に返り、振り向く。

「行こっか」

 彼女は微笑んだが、無理が垣間見えた。

「……おう」

 蓮は短く答える。それ以上、何も言えない。

「飛んで行く?」

「……いや、歩いてこうぜ」

 夜風は冷たいはずなのに、何故だか寒くはなかった。



 送られてきた住所へ、マップアプリを活用しながら歩いていくと、辿り着いたのは高々と聳える立派なマンションだった。

 外観も内装も豪華で綺麗なものだ。植えられた木や花壇の手入れも行き届いている。

「おいおい、こんなとこに一人暮らししてんのかよ。しかも高校生が」

「びっくりだね……」

 驚きを隠せないまま顔を見合わせた。

 彼女に教わった部屋番号を入力し、インターホンを押す。

 解錠された自動ドアを潜り、紅の部屋へと向かった。

 すぐさまドアが開けられ、彼女が顔を覗かせる。

「よく来たな。上がってくれ」

「お邪魔します……」

 やや戸惑いを拭えないながら、小春は蓮とともに家へ上がった。

 廊下を進む彼女について行くと、広々としたLDKへと突き当たる。

 紅の部屋は全体的にシンプルですっきりとしていた。
 洗練された家具が揃っており、掃除も行き届いている。

「すげぇー」

「うん、凄い広いね」

 きょろきょろと部屋を見回し、小春と蓮は感動を顕にした。

「私は必要最低限の生活を好むため、持て余している。空室ばかりだ。今回はかえってそれが役に立ったみたいだがな」

 淡々と答えた紅がリビングに隣接する二つの扉の前で立ち止まった。

「空いている洋室だ。それぞれ好きに使ってくれ。こんなときのために布団もある」

 ガチャ、と扉を開けてみる。

 テーブルに椅子、布団一式と、まさに必要最低限のものが揃っていた。

「ミニマリストっつった割には用意がいいな……」

 訝しむように屈んだ蓮は、その布団にタグを見つけた。

 小春は「あ」と呟いてしまう。

「これさっきパクッて来ただろ」

「さて? 何のことか分からない」

 紅は表情を変えることなく、淡々としらばくれた。

 時を止められるということは、そういうことも出来てしまうわけだ。

 そういえば、紅は小柄な見た目とは裏腹に、たった一人でアリスを運んでしまうほどの力持ちなのだった。布団二つくらいも余裕だろう。

 間取りの説明を終えた彼女は二人に向き直る。

「風呂は沸かしてあるから、いつでも入ってくれて構わない。ご飯は私が作る。自分の家だと思ってくつろいでくれ」

 それを聞き、蓮は小春に目を向けた。

「今日は色々あって疲れただろ。先、風呂入って来いよ」

「安心してくれ、水無瀬氏。洗面所には鍵もある。向井氏のことは私が見張っておく」

「覗かねぇよ、馬鹿」

 遠慮と容赦のない紅と蓮のやり取りに思わずくすりとする。

 深刻になり過ぎないよう気遣ってくれているのかもしれない。

「ありがとう」

 二人の優しさに甘え、小春は風呂へ向かうこととした。



 湯船に浸かると、気が抜けた。

 一人になった途端、今日の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

 じわ、と涙が滲んだ。

 至を失い、うららを失い────その事実が重く深く胸に突き刺さる。

 唯一喜ぶべきは記憶が戻ったことだが、それも明日には消えてしまう。

「……っ」

 震える右手を見た。

 至を貫いた感覚は、まだ色濃く残ったままだ。