彼女が亡くなったことに対して、どんな言葉を発すればいいのかわからなかったのは、現実味がなかったせいかもしれない。
気になるのは娘の事だが、しかし、他人の自分にはどうすることもできないのではないか、池上の言葉に沢木は付き合っていたのではと尋ねた。
 意表を突かれたというか、予想もしなかったのか、池上の顔は何故と不思議そうな表情になった。

「いや、そういう関係では」

 納得したのか、それ以上、言葉を続けようとはいない沢木の態度に居心地の悪さを感じたのかもしれない。
振られたと池上は一言、呟いた。

「実は、その後、彼女、すぐにいなくなったから、ショックというほどでもなくて」
「そうなのか、まあ」

 その返事が意味ありげで、まさか、君もと言いかけたが、その言葉を飲みこんだ。
二人は互いの顔を、どことなく気まずそうな表情で見ながら、話題を変えないかと視線をそらした。
 今は仕事で色恋の話は、そういうのは面倒だと沢木は呟いた、すると池上も自分もだと頷いた。

「いや、一人になって随分と楽になった」
「それは、あれだ、私生活が充実しているんだ、テレビに出て講演会、たまに雑誌でも見かけるぞ」
「いや、最近は少し休もうと思って」
「おじさん、いや、おっさんだからな、お互い、休息も必要だ」
「そういう君も映画に舞台、活躍しているじゃないか」

 最近になってようやく役もつくようになってと言いかけた沢木は好きなんだとぽつりと呟いた。
確かに人生において、物事全てがうまくいくなんてことはない、自分だってそうだ。

「今度、飲みに行かないか」

 池上の言葉に沢木は驚いたのか、不思議そうな顔をした。

「仕事の職場の人間と飲みに行くと、話題やネタにも気をつけてしまって、せわしないんだよ」

 その言葉に、確かにと頷きながら暇なときにはいつでも声をかけてくれと沢木はくすりと笑った。

 
 久しぶりの休みだ、ゆっくり寝たと思い、時計を見ると十時を過ぎている、近所の喫茶店でモーニングでも食べようと思っていたが、この時間だとぎりぎりだ。
 台所で食パンを生のまま囓り、空腹を満たすと本屋にでも行くかと出かける支度を始めた。
 仕事に行く訳ではないので髪は撫でつける必要もない、そのままだ。
 だが、念のために眼鏡をかけた。
 ニュースや報道番組に出ているときは、それほどでもなかった。
 だが、数年前、知り合いに頼まれ、若手芸人の出る番組に何度か出たことがあるので、そのせいかもしれない。
 街中や店で初めて若い子から握手やサインを初めて求められたときは驚いた、今でこそ無難に対応できるようになった自分を褒めたいぐらいだ。

 新しい本屋ができたんだと巨大なビルの前で池上は建物を見上げた、街中に大型書店ができるのは決して珍しいことではない。
 本だけでない、飲食できるようにコーヒーショップ、パソコンを持ち込めるワーキングスペースもあるので若者だけでなくサラリーマンも多いのだろう。
 建物の中に入ると平日だが、人はそこそこ入っている。
 新刊コーナーを一通り見た後、少し前に自分が出した本の事が気になった。
 売れているだろうかと思ってしまい、自己開発、現代思想、マーケティングなどの小難しい本の階がある棚を探していた池上は足を止めた。
 閲覧用のハシゴで高い棚の本を取ろうとしている人物の後ろ姿を見つけたからだ。
 棚に手をかけて上っているが、どこか危なっかしいと思ったとき、カランと音がして床に何かが落ちた。
 杖だ、慌てたように床に視線を落とす姿を見て池上は思わず声をかけた。

 ハシゴから降りた女性は池上にありがとうございますと頭を下げた。
 足下には店内用の籠の中には本がぎっしりと入っていた、ちらりと見ただけだが、背表紙からわかる、ジャンルも様々だ。
 地元情報雑誌、最近流行の小説、その中に数ヶ月前に自分が出した著作が入っているのを見て、池上はおやと思った。
 目の前の女性は自分より随分と若く見えるが、こういう内容も読むのだろうか、それとも頼まれたのだろうか。
 いかん、こういう詮索好きなところはおっさんというより、職業なんやらだろうか。
 本が好きなんだね、自分の言葉に女はにっこりと笑いながら、はいと頷いた。

「久しぶりに来たなです、読みたい本がまだまだあるんです、特に、この人の本は」
女は籠の中から一冊の本を取り出した。

 参ったな、女性と別れた後、池上は自分の顔が見事に緩んでいるのを感じた。
 この人の本、なかなか手に入らないのもあって、そういって見せられたのは自分の本だったのだ。
 しばらく店内を歩き回った後、めぼしい本を数冊のつもりが籠いっぱいになってしまった。
 宅配で送ってもらうかと考えたが、いや、家に帰ったらすぐに読みたいと思い、精算後、店の外に出ようとしたとき、声をかけられた。

「沢木君、どうしたんだ」

 こんなところで会うとは、池上は、このとき、ちょうどいいタイミングだと思い、今、時間はあるかいと声をかけた。
 先日、番組に出てくれないかと言った、あの話だよというと沢木は頷いた。

 外に出たとき、池上は思わず足を止め、呟きを漏らした。
 視線の先の二人の男女がいたのだが、先ほど店内で見かけた女性だ。
 だが、男性の方は、おや恣意と思ったのは様子からして会話が言い合いをしているように感じられたからだ。

 そのとき二人に駆け寄ってきたのは一人の女性だ
 いきなり男に向かって何かを叫んだのだ、だが次の瞬間。

「警察を呼ぶわよ、世間ではあんたみたいな男をストーカーってよぶのよ」

 声は大きく、通行人もえっと驚いたように振り返る。

「池上さん、知り合いなのか」
「先ほど店の中で」

 その言葉に沢木は三人に向かって歩いて行く、その姿に慌てて池上も追いかけた。