カフェがオープンして1か月とすこしが過ぎた。


私は前に働いていた会社の近くのパスタのお店で、昼休み中の翔ちゃんとランチをとっている。

「カフェはどう?」

翔ちゃんの問いに、私は肩をすくめる。

「どうかな。近所のおじいちゃんやおばあちゃん、妙子さんやお父さんの幼馴染、私と暉の幼馴染が常連さんたちで、あとは暉のSNSで訪ねてくる国内外の人たち、一見(いちげん)さん、お父さんの大学関係の人たち、蒼の事務所の人たち何人か、そんな感じ。最近、幼馴染の若菜ちゃんが、週3くらい朝から3時までバイトに来てくれてるんだ」

「会社辞めてから、いろんなことがあったよね。超絶イケメン彼氏ができたし、妹とか、甥っ子までいきなりできて」

「1年前はどれも予想もできなかったよね。翔ちゃんは専務の秘書、もう慣れた?」

「うん、まあね。前は女性秘書だからって遠慮してた取引先が、接待だって銀座のクラブに連れて行こうとすることがウザいくらい。専務は上司としては文句なしにすばらしい人だしね」

「専務はお元気?」

「ああ。きみに振られてからは、ちょっとは考えを変えたみたい。雪乃様の仕込んだお見合いにも文句なく行くし、女性から誘われたら時間があればとりあえず出かけてるみたいだし」

「えっ? 22歳の気の強いお嬢様は? うちのカフェにまで、偵察に来たひと」

「あれは、専務が耐えられずにお断りしたんだよ。そんな若すぎない、落ち着いた物静かなひとがいいって。ちょっとまだ、キミを引きずってるみたい」

「そっか。専務は秘書として2年半、ずっと一緒にいた私に思い違いをしてるだけだから、いろんなひとと会ってみるのはいいことだね」

「——ほんとにさ、専務には1ミリも惚れなかったわけ?」

「いや、だって、私には当時は圷さんがいたでしょう? 誰かと関係を築いているときに、ほかの人を好きになるなんて、そんな器用なことできないよ。仕事の関係だからこそ、専務と一緒にいても違和感がなかったんだから。たとえフリーだったとしても、私には気後れしちゃって秘書以外は無理だったよ」

「きみだったら、会長も社長夫妻も許したと思うんだけどな。ある意味、性格は似たところあったから、2年半も一緒にいても上司と部下以外には進展しなかったんだろうけど」

「牧場に行った時に、専務が言ったの。カフェ開店の日、駐車場で私と専務が立ち話ししてたら蒼が中庭を横切って歩いてきたんだけどね。私が蒼の名前を読んだ時に私が蒼のことを好きなんだって、わかったんだって」

「へぇ。まあ、確かに、朔はああいうちょっと俺様なタイプのほうが、優しい王子様タイプよりは合うかもね。会社辞めてからちょっと性格変わったみたいだし」

「変わったかな?」

「うん。秘書の時は意図的に周りに気を使ってたからちょっとおどおどしてた。でも今は、のんびり、余裕がある感じ。自信があるようにも見えるし、冗談抜きすごくにきれいになった」

「すごく?」

「すごく。愛されてる女、って感じ。よかったんじゃない? 誰かのせいで気持ちが揺らいだりもやっとしたり、情熱とか、欲望とかを知れて、めちゃ幸せを感じることができて、女の喜びとか体の相性まで知れたんだから」

「か、翔ちゃん、声、潜めようか。ランチタイムに人に聞かれたくない話題だよ!」

あはは、と翔ちゃんは笑った。


それからケイ君の仕事のこととか秘書課の皆さんの近況とか、社内のいろいろなゴシップを聞いて、デザートのあと昼休み時間ぎりぎりまで、私たちはランチタイムを楽しんで別れた。

私は近くのビルの地下パーキングにとめた愛車に向かう。

季節はすっかり初夏。目に痛いくらいの太陽と街路樹の新緑の石畳に揺らめく濃い陰を踏みながらのんびり歩く。



最近は、ほんとに、どうしたのってくらい平穏な日々が続いている。

蒼の友達のエルも何度かカフェに来た。またそのうちに来ると思うと言って、帰国した。

「マウンティング野郎」こと高橋さんも、たまぁにふらりとやってくるようになった。いつも決まって蒼がいない時にやって来て(本人曰く、意図的だそう)、キッチンカウンターで私を呼び止めて、人生の不条理とか独特の恋愛観を語るのだ。「あんな奴は無視しろ」と蒼は言うけれど、彼がひそかに妙子さんのベイクドチーズケーキのファンなことに気づいてしまったので、そうもいかない。

いわゆる「うざキャラ」なことは確かだけれど、個性的すぎる斜め上の恋愛観を聞くのはけっこう楽しいのだ。

本当はおとなしく本を読んでいてほしいところだけど、私や妙子さんが話を聞いてあげるとすっきりするらしく、事務所でも蒼に絡むことが減ったというので承認欲求を満たす協力をしてあげることにしているのだ。

彼の話によると、最近は事務員の遠西さんは合コンで知り合ったIT企業の重役社員と付き合っているらしい。「金やステイタスでしか男を見ない女」だと高橋さんは彼女を皮肉っていた。でも、気になるんだね。

友坂さんも時々やってくる。大抵は一人だけど、2回くらい、平井弁護士を連れてきたことがある。彼女たちもうちの父と妙子さんのようだ。年齢よりもくたびれている年下の平井弁護士に、リア充の友坂さんがいろいろとアドバイスをして生きる喜び(?)を教えてあげているらしく。

平井さんはパラリーガルの桐生さんにぐいぐいと迫られ、友坂さんが言うところの「底なし沼に徐々に沈められるように罠にはめられ」ている状態らしい。平井弁護士いわく、「僕にはもう、自分から恋愛する気力も自信もないんです」とのこと。じっとしていて、捕食されるのを待つだけでいいと思っているのよと、友坂さんは苦笑していた。


蒼と私は……


夕飯の買い物をして帰ろうと、大きなスーパーの駐車場に車を止めたとき、ブルートゥースで着信があった。暉からだ。今日の午後は会計士と一緒にクライアントとして蒼の事務所に会いに行く予定だと、今朝言っていたけど?

「朔! 今どこ⁈」

まだ何も答えていないのに、酷く焦った声が車内に響き渡る。

「えっ、何? 夕飯の買い物に、東月見台のスーパーの駐車場に入ったところだけど?」

「そ、そっか。俺今、蒼のおやじさんの事務所に来たんだけどっ。朔、よく聞いて。今、車、もう運転はしてないよな?」

「なんなの? うん、止めたところだよ」

「蒼が」

「うん」

「蒼が、昼過ぎに、裁判所の前で刺されて、救急搬送されたって‼」

「えっ⁈」


なに⁈