土曜日の午後3時。

外出直帰の蒼は、キッチンカウンターにいる。

妙子さんの裏メニュー、ふわっふわのメレンゲがこんがりときつね色にやけたレモンタルトを、私から横取りしている。

いまのところ何の注文もないので、海里君はカウンターにもたれてミルクティーを啜りながら蒼にまとわりついている。彼は蒼のことがとても好きらしい。

今日の質問は、どうしたら「ヤマネコ助教」を振り向かせることができるかということ。


「結論としては」

私からコーヒーを受け取りながら蒼は言った。海里君は神妙に次の言葉を待つ。

「諦めたほうが時間の無駄にならないと思う」

海里君はえっ、と目を見開く。海里君の賄い飯のクラブサンドを作りながら妙子さんがくすっと笑う。


「だって、脈がないし。2年もなびかないなんて」

海里君はヤマネコさんの写メを見せてくれた。なにかのパーティの時のらしい。

「へぇ、意外。ヤマネコなんていうから、肉食系のハデな美女を想像してたわ」

海里君のスマホを覗き込んだ私がつぶやくと、海里君は唇を尖らせた。

「ハデじゃないですよ。美人ですけど」

地味なグレイのスーツ姿のその女性は、色白で細面、年は私より一つ下くらいだけど、私よりはるかに落ち着いて大人っぽく見える。真ん中わけのストレートの黒髪は胸のあたりまであり、切れ長の瞳に高い鼻筋、赤い唇の正統派美女。

「これは海里じゃ無理でしょ。この手のタイプは知的で結構年上の男が好みじゃないかな」

「そんな……」

泣きそうな顔の海里君。

「好きだって、伝えた?」

クラブサンドのお皿を渡しながら妙子さんが訊く。

「そりゃあもう、百回以上は好きですって伝えてます! いつも、『それはありがとう』って言われますけど」

あー。要するに、相手にされてないのね。

「彼女の、どこが好きなの?」

私の質問に海里君はきょとんとする。そして自信満々に言い切る。

「あふれる知性とこの美貌、周りには冷たいのに、僕には時々お弁当をくれるやさしいところです!」


ん?

まるっきり脈なしでもないのかな?

ツンデレさんなのかな?

何か腑に落ちない。

「お弁当って……作って、くれるってこと?」

「いえ、コンビニのです。自分のを買ってい来るついでに、僕にもくれます」

うん? うーん?

「掃除も洗濯も料理も苦手なんです。だから僕が時々、家事をしてあげるんです」

うん⁈

それって……?

私と妙子さんは混乱してくる。一体、海里君はヤマネコさんとはどういう関係なの?


「そうか。それで海里がいいなら、いいんじゃないか? 諦めなくても、よし」

そういって蒼は最後の一切れのレモンタルトを口に入れる。

ええ? 「よし」? どこがそれで「よし」?


ヤマネコと柴犬(の子犬)。


「なに、朔。こっそり笑って」

蒼が私の頭を人差し指で押す。

「いやちょっと、ヤマネコと柴犬、の子犬って」

妙子さんがくすっと笑う。蒼もくっと笑いを堪える。海里君は唇を尖らす。

「いいじゃない、かわいくて」

妙子さんの言葉に海里君はますますすねる。

「そりゃあ、犬か猫かといえば、僕は犬派ですけど……」

「性格判断の二元論ね」

翔ちゃんが言ってたやつ。

「人の性格を犬っぽいか猫っぽいかに分類するんですよね。心理学の講義でカウンセリング法の一つとして習いました。実際にクラスを二元化したんです。おもしろかったな。たとえば、人懐こい、社交的、甘えん坊、かまってちゃん、褒められるの大好きなら犬派。自分が一番、気まぐれ、公的な場では社交的だけど私的にはわがままとかなら猫派。どっちか多くあてはまるほうが自分のタイプです」

「二元化は大雑把すぎないか? 犬にも猫にも当てはまる人も多いだろうし、どちらかというとで選べば信憑性も低くなる」

「もぉぉ。蒼さん、そういうのはなんとなくでいいんです。少なくとも、合コンの話題くらいにはなるでしょ?」

海里君は嬉しそうに見える。2年もヤマネコ助教さんに片思いしている割には、合コンは出るみたいね。

「それで、4つに分類して相性を見る材料にするんです。犬が好きな猫、犬が好きな犬、猫が好きな犬、猫が好きな猫。僕なら、猫が好きな犬かな」

「つまりどういうことなんだ」

「愛されるよりも愛することがたまらなく好きなのよねぇ?」

妙子さんの言葉に海里君は首を大きく縦に振る。

「そうです! だから僕は犬が好きな猫とは相性ばっちりだと思うんです!」

えっ? ヤマネコさんは、猫が好きな猫なんじゃないの? だから海里君はずっと片思いなんじゃ……?

「暉さんは完全に犬派ですよね。妙子さんも犬派。蒼さんは猫派でしょ?」

うんうん、いい線いってると思う。ちら。海里君が横目で私を一瞥して首をかしげる。

「うーん。朔さんは……どっちだろう?」

「朔ちゃんはねぇ、……あら?」

妙子さんも首をかしげる。

「ほら。二元論では説明しきれない例外も出てくるだろう? 朔は、犬にも猫にもあんまり当てはまらない」

蒼が肩をすくめる。

うーん。

「犬と猫、ミックス?」

海里君の言葉を蒼が一蹴する。

「そんな動物はこの世に存在しないな」

「無理無理に言えば当てはまる数の多さで猫派かしらね?」

妙子さんが言う。

「僕のヤマネコさんとは全く違いますけど、朔さんもどちらかと言えば猫派ですね」

「海里君はどう見ても100%まがい無き犬派だけどね。それよりどうして彼女のことをずっとヤマネコさんと呼ぶの?」

「ああ、学生たちが呼んでるニックネームなんです。山根小春(やまねこはる)さん、なのでヤマネコさんです」

なるほどね。私たちは納得してうなずく。

「ちなみに山野井教授とセットで『ダブルはるちゃん』とも呼ばれています。教授単体では『はるちゃん』です」

はは。うちのお父さんの名前は(はる)、だからね。

「僕はとにかく、ヤマネコさんに振り回されることに幸せを感じるんです」

ワンコの中のワンコ、海里君は相当Mッ気が強いのね。


本人がいいならもうそれでいいだろうという結論に至り、犬猫二元論はそこでおしまいになった。

そして閉店の掃除や後片付けをし始めていた時、誰かがドアを開けた。

「恐れ入ります、閉店になります」

入り口で海里君が丁重に頭を下げる。

するとその人はやわらかなソプラノでこう言ったのだ。

「大丈夫です、書類をお届けに来ただけですので」



ん?