翔ちゃんは挨拶だけして自分たちの席に戻った。

私は専務を翔ちゃんたちの席とは離れた反対側の角席に案内する。今日は2階は開けていないので、ほかのお客はいない。

ちょっと失礼して1階に行き、メニューにはない甘みとコクの私オリジナルのブレンドのコーヒーをお出しした。それは働いているときに毎朝お出ししていたコーヒーだ。


「お元気でしたか? ちょっとお疲れみたいですね」

私の言葉に専務は一瞬少し驚いて目を見開いた。

「どうして疲れているってわかるんですか? 誰にも言われてないのに」

私はくすっと笑う。

「わかりますよ。2年半もおそばにいましたから」

「さすがですね。あなたはいつもそうやって、私の疲れ具合を把握して、微妙にスケジュールの調整をしてくれていましたね」

「あ、お気づきでしたか? 今思うと、なかなか気の利く秘書だったでしょう?」

「今思わなくても、ずっとそうだと思っていますよ」

王子スマイル、久々に神々しい。専務は翔ちゃんのほうを一瞥する。

「彼もとても頑張ってくれてます」

「そうれはよかったです。でもお疲れでしょうから、時々はちゃんと休息をとってくださいね」

「……ありがとうございます。それにしても、いいお店ですね。お宅のお庭も素晴らしいですし。隠れ家みたいだ」

「まさにそれです。隠れ家。お昼は、召し上がりましたか?」

「朝食が遅くて、この後、義姉(あね)主催の茶会に出席しないとならなくて」

「あ、ということは……専務、またお見合いを仕組まれますね」

副社長夫人の雪乃様は、社長、社長夫人、夫の副社長から義弟(おとうと)の結婚相手を見つけるミッションを課され、つねに何かを仕掛けてくる。

「うーん、たぶんまた今回も例にもれず、でしょうね。だから正直、行きたくはないんですが」

専務は苦笑する。

「逆に早く見つけてしまえば、攻撃はなくなりますよ?」

私はふふふと不敵に笑う。雪乃様はある銀行の頭取のお嬢様で、美人で気が強い。歯に衣着せぬ物言いなので誤解されがちだけど、竹を割ったような単純で豪快な性格の女性だ。私はちょっと……いや結構、怖いけど。専務も義姉には逆らえない。

お疲れの上に雪乃様の強引さを思い出したのか、専務の表情が暗くなったので話題を変える。

「あの、そういえば前におっしゃったこと……初めて会ったのは、専属秘書になった時じゃなかったっていう、考えてもわからないんです」

「ああ。まだわからないですか。しかたない、今度教えて差し上げますよ。再来週の水曜日は、夕方からお時間ありますか?」

「はい。どこか場所が関係するんですね? ここは兄に頼むので大丈夫です」

「では、5時くらいに、お迎えに上がります」

「承知いたしました」

専務がぷっと吹き出す。

「仕事ではないんですが」

「あはは。そうですね」


それから小一時間ほど、他愛ない話をして専務は帰ることに。翔ちゃんが挨拶をして、私は駐車場までお見送りに出る。

クアトロポルテのドアをアンロックして乗り込む前に、専務は何かを言いかけてやめ、そして口を開いた。

「山野井さん」

「はい?」

「再来週は、動きやすい恰好でお願いします」

「はい、わかりました」

「それで、あの……」

専務が何かを言いかけたとき、中庭の奥、母屋のほうから蒼が指に引っかけた車のスマートキーをぐるぐる回しながら来るのが見えた。逆側には細長い黒い箱を持っている。ジーンズにカーキのTシャツ、紺のジャケット。カフェのほうではなく、家の前のほうに車を止めてきたらしい。

私の意志に反して、私の胸はどきんと高鳴る。

「蒼」

私の声に気づいた蒼が顔を上げる。私が専務と一緒にいるのを見ると一瞬左上を見つめ、そしてそれから何かに納得したようににやりとする。

専務は5メートルほど先の飛び石の上をゆっくりと歩いてくる蒼に軽く会釈した。蒼も軽く会釈を返す。

「では」

専務は車に乗り込み、エンジンをかけた。私はぺこりと頭を下げた。車は駐車場を出ていった。



「あれが半年前、あんたに小判を与えた男だろう? 元上司」

目の前まで来た蒼が楽しそうに言う。

小判って……確かに、猫に小判な高価なワインでしたけどね。

それがきっかけで、私とあなたは……

「見送ったんだろう? 入らないのか?」

蒼はカフェの入り口を指さす。

「……」

私は唇を尖らせて身を翻し、店に戻る。蒼は後をついてくる。

「朔」

後ろから、呼ばれる。

「なに?」

立ち止まって振り返る。

「命令3。あの男に惚れるなよ」

「……惚れないし!」

私は蒼の腕をぺしっと叩いた。蒼はおかしそうに忍び笑いをする。



そのままドアを開けて中に入ると、ちょうどドアの前にいたるなちゃんが目を丸くした。

「あっ、朔おねえさん! どこに行っちゃったかと思ってたの。私もう帰らなきゃいけないから、挨拶したかったの」

「そうなの? また駅まで海里君に送ってもらおうか?」

「まだ明るいし、人通りも多いし大丈夫です。また来ますね」

「待ってるね」

るなちゃんは笑顔で手を振って帰って行った。

すこし後ろでじっと見ていた蒼は何かを疑問に思ったらしく、首をかしげた。

「なに?」

「いや、何でもない。ちょっと考えごと。あれは、この前助けたっていうカメだな?」

「あ、そうそう。カメ、じゃないけどるなちゃんだよ」

ふうん、と蒼は興味なさそうにかすかにうなずいた。


「蒼! 来たか!」

暉が来る。蒼は細長い黒い箱をぽいっと暉に投げる。

「うわっ! お前、投げんなよっ!」

「開店祝いな」

「うわっ、カーボン‼ サンキュー!」

蒼は答える代わりに手をひらひらと振る。暉はまたまた嬉しそうにシャンパンの箱を抱えて去ってゆく。

「ちょろい奴」

暉の背を見送りながら蒼は鼻で笑う。

「ね、蒼」

「うん?」

「私の親友が2階に来てるんだけど」

「ああ、同期の?」

「うん。本読んでる。それで、その……」

紹介したいんだけど。

でも、どういう間柄って言えばいいの?

ちょっと言い淀んでいると、いつの間にか戻ってきた暉が蒼を引っ張る。

「な、ちょっと来いよ。朔の友達が2階にいるんだよ。俺のハロウィンの写真、見たろ? あのゾンビふたり。朔、どうせこれらからもよく顔合わすだろうから、蒼に紹介しようぜ!」


あ、さっくり解決。

暉にぐいぐい引っ張られていく蒼のあとに続いて階段を上がる。