高校生の時、今はもう理由も思い出せないけど何かとても落ち込むことがあって、ひとりでここに来た。

その時、この子が水槽の中からずっと私を観察していた。

立ち泳ぎでダンスみたいにくるくる回ったり、体をのけぞらして後転したり、あおむけで泳いだりして一生懸命に私を癒してくれた(と思う)。


そのイルカは水槽中をすごいスピードでぐるぐる回り始める。

その様子にくぎ付けになっていると、左肘を引かれ右からウエストを後ろに引き寄せられた。ベンチではなく、蒼の膝の上に座ったことになる。私は急いで立ち上がろうとしたけれど、蒼はそのまま私を抱きしめる。

私は拘束されながらも後ろを振り返る。大学生くらいのカップルと老夫婦が離れたところでイルカに見入っている。必死に抜け出そうともがくけれど、びくともしない。

「ちょっと、ヒトがいるのに……」

「別に見られて困るようなことじゃなくない? それにしてもあんた、ちっちゃいな。暉に背も取られたのか?」

「なんてことを言うのよ。これでもギリ160㎝はあります。あなたは育ちすぎだけど!」

「しっ。暴れるな。隅っこにいるのに、注目されるだろう?」

蒼は小声で囁く。本当に憎たらしい!

「降ろしてくれたら、注目されないから!」

私は蒼の腕をびしびし叩いて無駄な抵抗を続ける。蒼はくすっと笑い、水槽を見上げる。

「細かいことは気にするな。みんなイルカに夢中だよ。あのイルカはこっちに興味津々だけど」

水槽を振り向くと、目の前にはあのバンドウイルカが身動きせずにじっとこちらを見ている。

……なんか、恥ずかしい。

「わ、笑われてる?」

「いや、もともとああいう顔なんだよ」


ふいに通路側からざわざわと大勢がやってくる気配がする。きゃっきゃっ、と子供たちの声。そして大人の声。

「はーい、みなさん、ほかのお客さんもいらっしゃるので、お口は閉じてねー」

はぁぁい、とかわいらしい声。

小学生の遠足だろう。ばしばしと蒼の膝を叩くと、やっと降ろしてくれた。でも、腰をがっつりと捕まえられていて、ぴたりとくっついている。仕方がないのでできるだけ動かず、注目されないようにすることにした。


水族館のお姉さんが、イルカの生態について説明する。好奇心いっぱいのイルカたちは、大勢の子供たちが気になってかわるがわる子供たちを見物にやってくる。きっと彼らはこのあとお昼に開催されるイルカショーを見物するのだろう。

イルカはすべて中央の子供たちのあたりにいる。

私たちの目の前には白い底に描かれる、ゆらゆらと形を変え続ける集光模様(コースティクス)だけ。


「水の中って、きれいだよね。見てるだけで癒される」

「アクアリウムセラピーだよ。今朝より今のほうが、楽しいだろ?」

「あなたがからかいすぎて困らせなければね」

蒼はまた笑う。ああ、それじゃぁ……

(私のために、水族館に来たってこと?)

でも。

もやっとの原因は、あなただけど。


「青い世界を見てると、落ち着いてくるんだよ」

私もふふ、と笑う。

「これ、(そう)色だね」

右手を水槽の前にかざす。

「え?」

「ブルーでもなく、グリーンでもない。ブルーと言われればブルーだけど、グリーンと言われればそんな気もする、蒼の色」

「ふうん。『蒼』の字の意味を知ってるのか。さすが、学者の娘だな」

「昔は、『ミドリ色』っていう概念がなかったから、寒色系は黄緑から紫まで青って呼ばれてたって、教えてもらった。 蒼は……青緑色でしょ?」

「そうだよ」

「誰が付けた名前なの?」

「オヤジだよ。どうしてだと思う?」

「んー。生まれた日の空が青かったから?」

「不正解。ペナルティ1だから」

「なにそれ? 不正解カウントがあるなんて聞いてないんだけど?」

「今決めた。はい、次の答えは?」

「その前に、何月何日生まれ?」

「4月12日」

「うーん? 全く思い当たらない」

「ペナルティ2。世界宇宙飛行の日。人類が初めて大気圏外に出た日らしい」

蒼は呆れたように笑う。

「2番目の子供が生まれるときは親が余裕なのか気が緩むのか、性別はわかってたけど生まれる日まで名前が決まってなくて、たまたま朝のニュースでそれを見た父親が付けたって、母親が言ってた」


”The sky is very, very dark, and the Earth is bluish.” とは、ガガーリンの言葉(実際はロシア語だけど)。



「それじゃあ、『蒼』って……地球って意味でつけられたの?」

蒼は頭をのけぞらせておかしそうに笑う。

「その表情、初めてこの話した時の暉とおんなじだ」

「その話の流れだと、私たちの名前の由来は当然、暉が話したよね……」

「太陽と月? もちろん、それから親しくなった」

なるほどね。太陽と地球が高校で出会ったのね。

「不思議……」

「いや、だから、この前も言ったけどひとつも不思議なんかじゃないって。太陽に会ったら、月にも会ってみたいだろう? だから今こうしているのは俺が意図的にそうなるように行動したからで、不思議なことはないんだよ。いや、やっぱり不思議ってことにしておきたいか?」

蒼は脇から屈みこみ、私の唇に軽くキスをした。

「なっ……!」

「大丈夫だよ、暗くてちびっ子たちからはこっちは見えないから」

おかしそうに笑いながら立ち上がり、私の手を強引に引っ張ってそのまま速足で蒼は歩き出す。


どこまでが想定内なのか、まったく読めない。

私は金曜日から、ずっと振り回されっぱなしだ。


悔しいけれど……(そう)色のなかでおぼれてしまいそうだ。