二限目、数学。
前の学校では玲人の芸能活動の時間が多すぎてまともに授業に出られていなかった所為で、玲人の履修の遅れはかなりのものだった。例えばあかねたち篠塚高校では既に微積分の授業に入ってきているけど(クラスによって差はある)、玲人はまだ因数分解までしか分からない。
つまり一学期と二学期の後半という差が出来ている。

教科書が揃った今でも、その差を一人で埋めるのは厳しく、玲人はよく放課後に数学教師に教えを請いに行ったりしている。
勿論玲人の境遇を分かった教師も協力は惜しまないわけだが、数学教師も授業では一人の生徒だけには構っていられない。どんなに頑張っても半年分の学力の差が、授業になると玲人の前に立ちふさがっていた。

だから授業中、あかねは玲人の為に過去のノートを差し出しながら、玲人の為の板書の筆記に精を出していて、玲人は手元で自身の勉強の進んだところまでのあかねのノートを、一生懸命読んでいるのだ(真面目にノートを取っていて良かったと、あかねは心底思った)。

「じゃあ、高橋。この場合の微分係数はなんだ」

教師に指されてあかねは、はい、と立ち上がる。

「ええと、f′(2)=8、です」
「座ってよし」

ガタン、と席に着くと玲人があかねを見守っていた。そしてこそりと言った。

「あかねちゃん、中間テストの点数良いわけだよね。先生に指されても動じないし」

ああ、推しの微笑みプライスレス!! そのまま写実画になってルーブル美術館に保管されてもおかしくない程の輝いた笑みだよね!?

「遊ぶ時間が必要だったから、それに文句言わせないための口実が欲しかったの」

あかねは内心の動揺を抑えて冷静にそう応えた。
例えば今年の夏休み。8月の末日に配信があると分かっていたから、一学期の成績と宿題の進捗で見て良いと親に言わせる必要があった。
テレビを見るにしてもそう。宿題が終わったからテレビを見る、小テストで頑張ったから雑誌を集めても良い。そんな風に、玲人のファンとして恥ずかしくないよう、両親や教師を納得させる必要があった。

そういう行動は全て玲人に倣ったものだった。玲人は新しいフィールドに出るとき、常にその場に相応しく振舞っていた。
ドラマのNG番組があっても、玲人のNGはほとんどなく、あるとすれば共演者のNGに笑ってしまうくらいのもの。
バラエティーでは時に知的に、時にユーモアたっぷりに、その番組に相応しい行動をとっていた。

玲人があかねを見て感嘆するのだとしたら、その根拠はそもそも玲人に帰る。玲人が、あかねをこういう風に育てたのだ。

「まあ、つまり。伊達に玲人くんのファンをやってたわけじゃないのよ」
「……へえ?」

自分の名前が出ると思わなかったのか、玲人は少しきょとんとして顔をした。

「こらっ! 高橋! 暁! 何喋っとるか! 喋りたいんなら私の授業を聞く資格はない! 廊下で立ってなさい!」

こそこそ喋っていたところに教師の叱責が跳んで、あかねは生まれて初めて廊下に立たされた。玲人と二人で教室を出るときに、じろりと睨んでくる一部の女の子たちの視線が気になったが、廊下に立つと、なんだか口許に笑みがこぼれてきた。

ああ、玲人くん、本当に隣にいるんだなあ。
なんて、感じたりして。それでも、

「廊下に立たされるなんて初めてだ。なんだかこのまま内緒話も出来そうだね」

なんていう玲人のひそめた声に、応じるわけにはいかなかったけど。

相変わらず玲人に秋波を送る女子は多い。
隣にいるとかなんとか言ったって、あかねは平凡な人間だから、その他大勢では居られるけど、本当の意味で隣に立つなんて無理だと分かっていた。
だから、玲人のひそめた声にも苦笑で返すだけ。玲人は何も返してこないあかねに何も言わなかった。