ちょっと葉月よりうまいだけの嫌味への喜びを追いだしたくて、わたしは画材を片づけ始めた。パレットにのせていた絵具はもうがちがちにかたまっている。
「邪魔したね」と水月はいった。
「いや、いいの。見たい色は見られたから」
わたしは相手を見ずに、画材をしまう自分の手元に集中して答えた。
「見たい色?」
「水月も、水彩やってたんでしょ? あるじゃん、絶妙な色って。もっと明るい色がいいのに、もうちょっと深みのある色がいいのに、全然でてくれない、シャイなかわいい色」
水月はちょっと時間をかけて、「そうだね」と共感してくれた。それに中身がないことは、声が発せられる直前の静寂が物語っている。
葉月が彼の絵を本物と評価するのは、兄弟だからではないのかもしれない。水月本人は落書きのようなものだといっていたけれど、実際には、本当にすごい絵を描くのだろう。親しみやすい、人見知りすることのない理想の色と一緒に、素敵な絵を描くのだろう。
しかし、そんな人が——。
「水月は、なんで絵、やめちゃったの?」
「描くべきものがなくなったから、かな」
ひどく衝撃的な言葉だった。描くべきものがなくなった。
「そんな……ことって、……あるの……?」
「あるんだよ。はなは、どれくらい絵を描いてるの?」
「えっと、……中二、中二の頃から、だから……え、二年? 二年くらい……」
うまく頭が働かない。うまく言葉がでない。
描くべきものがなくなった。そんなことってあるの? 飽きたということ? 諦めたんじゃなく、飽きたからやめたの?
本物は、そんなところまでいくの?
「きっと、はなにはこんなことはないんだろうね。はなはまだ熱がある。いや違う、はなには熱意がある」
どう違うの、と尋ねるほどの気力もない。
「……その熱は、いつ……さがったの」
「ついこの間だよ。この熱が、熱意じゃなくて病的なものだとわかった。幻覚を見せるほどの、恐ろしい病気による発熱だったとわかった。俺は愚かな愚かな自信に期待と名づけて、それを打ち破られて絶望した」
水月の声は、どこまでも冷静で、いっそ、冷たいほどだった。言葉の割に絶望した声じゃない、恥じらうような声でもない、愚かといいながら、嘲笑うような声でもない。どこまでもからりとした、至って冷静な声。
「期待が外れたくらいで、どうしてこんなに絶望しよう? そこに理由なんてないんだよ。だって潰えたのは期待じゃなくて自信なんだから。俺は期待が外れて絶望したんじゃない、底なしの自信を押し潰されて、無理矢理に底を作られて絶望したんだ」
「……どういうこと、水月は……諦めたの?」
「そうだよ」
「飽きたんじゃなく……?」
「飽きられたんならどれだけ幸せだろうね」と水月は乾いた笑いをこぼす。
「俺は小さい頃からずっと落書きをしてたんだ。画用紙に、衝動的に感情のままに線を描くのが、クレヨンじゃなく絵筆だっただけだ。俺はそれを美しいと錯覚した。
この曲線は、この直線は、自分にしか描けない、なんとも微妙な具合の、どうしようもなく——芸術的で美しいものだと思いこんだ。幻覚だね。初めての自覚症状だよ。
やがて熱がでてきた。それなりの高熱だったんだろうね、すると幻覚は一層激しくなって、まるで現実のように思えたんだ。いや、現実になったんだよ。
俺は世にも素晴らしい画家だった。誰よりも美しいものを描く、天才だった。画用紙に広がる、実際にはぐちゃぐちゃに絵筆を動かしているだけの、直線とも曲線とも呼べないような衝動の結晶が、俺にはものに見えた、風景に見えた。俺は美しいものを、美しい風景を描いていると思っていた。
誰にもできない色使いで、実に忠実に、目の前の美しいものを美しいまま、画用紙に取りこんだと思いこんでいた」
水月のまとう空気が変わったように感じた。見れば、彼はまぶたを開き、その花のかおばせを惜しげもなく見せびらかしていた。
「さあ、ここでひとつお披露目といこうじゃないか」
立派なマジシャンがショーを始めるように、彼は腕を広げた。そこには——いや、その奥に、なのか——かすかな、けれども確かな、狂気がある。
「いざ、この美しい景色を皆に見せてやろう!」
貫くように声を通らせると、水月はひんやりと微笑んだ。その微笑に溶けるように腕をおろす。
「そんな調子でね、俺は立派な審査員たちのもとへいくその“美しい景色”に、『期待しているよ』といった。信じているじゃなく、期待していると」
わたしは水月の狂気にすっかり取りこまれていた。体中に震えるほど力が入っている。ちょっと前までなんともなかったのに、寒気さえする。
逃げだしたいけれど、動けない。動いてはいけないような気がする。幻覚だろうか。このあと、熱がでるのかもしれない。
「結果は惨敗だよ。一次さえ通らない。当然だ、花車水月が描いた美しい景色なんていうのは存在しないんだからね。花車水月は天才じゃない、いたずらに絵筆を消耗させ、画用紙を汚すだけの問題児だった。その異常な衝動の犠牲になった画材の数は知れたものじゃない」
水月は笑った。天才・花車水月をひどく軽蔑して。
「あの幻の天才、その当然の結果にどうしたと思う?」
声はどこまでも冷静で、相手に問いかけるためかその響きには優しささえ滲んでいたけれど、それがまた不気味で恐ろしい。見るべきものを探すのと同時にどこかを見据える、あいまいで虚ろな鋭い目にもまた、体がすくむ。
「拒絶したんだ」と彼はいった。
「天才はあんまりに愚かだった。きみに才能はないと事実を教えられたとき、お前らがおかしいんだと発狂した。その愚かで悍ましい狂気は、手前の体をも蝕んだ。
蝕まれた体は外の世界を見るのを拒んだ。手前の落書きを“本物”と評価してくれる優しい愛おしい弟を手前の手で縛りつけて安心しようとしてるんだ。この子だけは自分を否定しない、この唯一の理解者を決して離さないと。
外にでるときにその理解者をそばに置いておくことで、『さあ見よ天才だぞ、本物だぞ』と幻に縋ることを正当化しようっていうんだ」
彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、一度、まばたきをした。まぶたを閉じた姿、開いた姿を見せるように。
「俺は今、なにもうまく見ることができない。目を開いているくらいなら、閉じていた方が心地いいくらいには」
囁くような静かで物悲しい声は、「いつか」とつづけた。
「いつかちゃんと、はなの絵が見たい」
——「葉月が惚れた、はなの絵を」
「邪魔したね」と水月はいった。
「いや、いいの。見たい色は見られたから」
わたしは相手を見ずに、画材をしまう自分の手元に集中して答えた。
「見たい色?」
「水月も、水彩やってたんでしょ? あるじゃん、絶妙な色って。もっと明るい色がいいのに、もうちょっと深みのある色がいいのに、全然でてくれない、シャイなかわいい色」
水月はちょっと時間をかけて、「そうだね」と共感してくれた。それに中身がないことは、声が発せられる直前の静寂が物語っている。
葉月が彼の絵を本物と評価するのは、兄弟だからではないのかもしれない。水月本人は落書きのようなものだといっていたけれど、実際には、本当にすごい絵を描くのだろう。親しみやすい、人見知りすることのない理想の色と一緒に、素敵な絵を描くのだろう。
しかし、そんな人が——。
「水月は、なんで絵、やめちゃったの?」
「描くべきものがなくなったから、かな」
ひどく衝撃的な言葉だった。描くべきものがなくなった。
「そんな……ことって、……あるの……?」
「あるんだよ。はなは、どれくらい絵を描いてるの?」
「えっと、……中二、中二の頃から、だから……え、二年? 二年くらい……」
うまく頭が働かない。うまく言葉がでない。
描くべきものがなくなった。そんなことってあるの? 飽きたということ? 諦めたんじゃなく、飽きたからやめたの?
本物は、そんなところまでいくの?
「きっと、はなにはこんなことはないんだろうね。はなはまだ熱がある。いや違う、はなには熱意がある」
どう違うの、と尋ねるほどの気力もない。
「……その熱は、いつ……さがったの」
「ついこの間だよ。この熱が、熱意じゃなくて病的なものだとわかった。幻覚を見せるほどの、恐ろしい病気による発熱だったとわかった。俺は愚かな愚かな自信に期待と名づけて、それを打ち破られて絶望した」
水月の声は、どこまでも冷静で、いっそ、冷たいほどだった。言葉の割に絶望した声じゃない、恥じらうような声でもない、愚かといいながら、嘲笑うような声でもない。どこまでもからりとした、至って冷静な声。
「期待が外れたくらいで、どうしてこんなに絶望しよう? そこに理由なんてないんだよ。だって潰えたのは期待じゃなくて自信なんだから。俺は期待が外れて絶望したんじゃない、底なしの自信を押し潰されて、無理矢理に底を作られて絶望したんだ」
「……どういうこと、水月は……諦めたの?」
「そうだよ」
「飽きたんじゃなく……?」
「飽きられたんならどれだけ幸せだろうね」と水月は乾いた笑いをこぼす。
「俺は小さい頃からずっと落書きをしてたんだ。画用紙に、衝動的に感情のままに線を描くのが、クレヨンじゃなく絵筆だっただけだ。俺はそれを美しいと錯覚した。
この曲線は、この直線は、自分にしか描けない、なんとも微妙な具合の、どうしようもなく——芸術的で美しいものだと思いこんだ。幻覚だね。初めての自覚症状だよ。
やがて熱がでてきた。それなりの高熱だったんだろうね、すると幻覚は一層激しくなって、まるで現実のように思えたんだ。いや、現実になったんだよ。
俺は世にも素晴らしい画家だった。誰よりも美しいものを描く、天才だった。画用紙に広がる、実際にはぐちゃぐちゃに絵筆を動かしているだけの、直線とも曲線とも呼べないような衝動の結晶が、俺にはものに見えた、風景に見えた。俺は美しいものを、美しい風景を描いていると思っていた。
誰にもできない色使いで、実に忠実に、目の前の美しいものを美しいまま、画用紙に取りこんだと思いこんでいた」
水月のまとう空気が変わったように感じた。見れば、彼はまぶたを開き、その花のかおばせを惜しげもなく見せびらかしていた。
「さあ、ここでひとつお披露目といこうじゃないか」
立派なマジシャンがショーを始めるように、彼は腕を広げた。そこには——いや、その奥に、なのか——かすかな、けれども確かな、狂気がある。
「いざ、この美しい景色を皆に見せてやろう!」
貫くように声を通らせると、水月はひんやりと微笑んだ。その微笑に溶けるように腕をおろす。
「そんな調子でね、俺は立派な審査員たちのもとへいくその“美しい景色”に、『期待しているよ』といった。信じているじゃなく、期待していると」
わたしは水月の狂気にすっかり取りこまれていた。体中に震えるほど力が入っている。ちょっと前までなんともなかったのに、寒気さえする。
逃げだしたいけれど、動けない。動いてはいけないような気がする。幻覚だろうか。このあと、熱がでるのかもしれない。
「結果は惨敗だよ。一次さえ通らない。当然だ、花車水月が描いた美しい景色なんていうのは存在しないんだからね。花車水月は天才じゃない、いたずらに絵筆を消耗させ、画用紙を汚すだけの問題児だった。その異常な衝動の犠牲になった画材の数は知れたものじゃない」
水月は笑った。天才・花車水月をひどく軽蔑して。
「あの幻の天才、その当然の結果にどうしたと思う?」
声はどこまでも冷静で、相手に問いかけるためかその響きには優しささえ滲んでいたけれど、それがまた不気味で恐ろしい。見るべきものを探すのと同時にどこかを見据える、あいまいで虚ろな鋭い目にもまた、体がすくむ。
「拒絶したんだ」と彼はいった。
「天才はあんまりに愚かだった。きみに才能はないと事実を教えられたとき、お前らがおかしいんだと発狂した。その愚かで悍ましい狂気は、手前の体をも蝕んだ。
蝕まれた体は外の世界を見るのを拒んだ。手前の落書きを“本物”と評価してくれる優しい愛おしい弟を手前の手で縛りつけて安心しようとしてるんだ。この子だけは自分を否定しない、この唯一の理解者を決して離さないと。
外にでるときにその理解者をそばに置いておくことで、『さあ見よ天才だぞ、本物だぞ』と幻に縋ることを正当化しようっていうんだ」
彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、一度、まばたきをした。まぶたを閉じた姿、開いた姿を見せるように。
「俺は今、なにもうまく見ることができない。目を開いているくらいなら、閉じていた方が心地いいくらいには」
囁くような静かで物悲しい声は、「いつか」とつづけた。
「いつかちゃんと、はなの絵が見たい」
——「葉月が惚れた、はなの絵を」



