花水木

 俺は適当に茶葉を入れた急須に、すっかり冷えた湯を注いだ。

 「きっかけなんてのは、まるでわからないんだ」

 冷えきった茶の残った湯呑みを手にとると、千葉も口元で缶を傾けた。

 俺は冷たい茶で喉を濡らした。

 「なにがあったわけでもない。なにを失ったわけでも、残酷な現実を突きつけられたわけでもない」

 千葉はしばらく考えこむような顔をしていたけれど、ふっとなにかに思い当たったように、顔をほんのちょっとあげた。

 「精神的、なものなの?」いかにも他所(よそ)で聞いた言葉を使ってみたといった感じだ。

 俺は空になった湯呑みを急須の中身で満たした。

 「まあ、そうなるのかな。でも別に、俺は疲れてるわけじゃない。体の中も外も、およそ健康なんだよ。心配はいらないから、学校のこととか教えてよ」

 千葉はまだちょっとなにかいいたそうな様子で、俺から目を逸らした。指先で、とことこと缶を叩き、少ししてから中身を一口飲んだ。

 「なにがあったかなあ……。あ、この間また、本当に必要な五教科について話した」

 ひどく懐かしく感じて、「ああ」といいながら笑った。「日本で生きていくならってやつ」

 「そう。あの話になると、相変わらず英語の扱いはひどいもんだ。まず英語をなくしてなにを入れるかって始まる。この間は、書道だの茶道だのが強かったもんだから、結局、国語だの数学だのもひどいことになったけど」

 「結論としては?」

 「美術、芸能、文学、哲学、音楽」

 「なるほど」といった声は笑いで揺れた。

 「書道とか茶道をまとめて“美術”にしたのか。芸能は?」

 「舞踊とか演劇とか、体現するもの」

 「なるほどね。文学は美術には入らないんだ?」

 「ああ、美術は有形のものにしようってなって」

 「で、哲学はいるか? どうせ沢木だろ、哲学ごり押しマン」

 「ご名答」と千葉がようやく笑った。

 「美術、芸能、文学ってきたら、ちょっと頭を使わないといけないっていいだして」

 「文学で使えそうだけどね、頭」

 「そういったんだけど、いいやだめだと。学校での勉強はまず受け身だから、哲学くらいのを入れておかないと刺激がなさすぎる、つって」

 沢木の返事はわかっていながら、「哲学って日本に必要なものかな」といってみる。

 「それはほら、『哲学は世界共通』つって」と知った通りの答えが返ってきた。

 「で、音楽っていうと?」

 これは俺の参加した議論では出てこなかった。いや、そもそも今こうして千葉が話すようなまでに話が広がったことは、俺が参加した限り一度もないのだけれど。

 「それは芸能にくっついてきた感じ。舞踊とかやるんじゃ、音楽は必須だってなって」

 「なるほどね。そんで、日本で生きていくなら、美術、芸能、文学、哲学、音楽の五教科にすべきだと」

 「そう。ああそうだ、そんでさ、人間が生きていくのに必要な五教科もあって」

 「お、なになに」

 「医学、語学、数理科学、社会、哲学」

 「そりゃまた、えらいハードだなあ」

 「医学は、あれば命が助かるつって真っ先に入ってきて。で、それを広めるには言語が必要だ、つって、世界各国の語学。で、数理科学があればテレビだの携帯端末なんかも作れる、つってね。

で、歴史から学ぶこともあるだろうってなって歴史がでたんだけど、法律がなけりゃとんでもないことになるってなって、じゃあ公民が優先かってなるんだけど、それぞれの地域について知っておかないとそれはそれで大変だってなって、結局全部ひっくるめた社会」

 「で、お約束の哲学、と」

 「人が生きていくって大変だよな」と千葉が苦笑する。

 「あんまりにハードだ」と俺も同調する。

「まあ、小学校にあがって早々、そんな感じで時間割が組まれるんなら、俺はもう、人間であることを諦めるよ」

 「あ、俺もそうする」と千葉ものっかってきた。