花水木

 家に帰ると、玄関の前で植木鉢に咲く花の手入れをしていたお母さんが、「遅かったね」と迎えた。

 ぎくりとしつつ「おやつ食べてきた」と打ち明けると、お母さんはうんざりした顔をする。

 「携帯、部屋に置いていっちゃったんだよ」といっても「いい訳しなさんな」と返ってくる。

携帯電話を携帯せずに出かけたのであれば、連絡が必要ないような出かけ方をしなさい、つまり携帯電話を持たずに出かけたら、その先で食事はするなということだった。

 「そうだ」とお母さんが思い出したようにいう。作業は済んだのか、園芸用の手袋を外して足元に置く。

 「はな、今週の土曜日ってなにかある? お母さんのところいきたいの」

 突然の言葉に、胸の奥がずきんと痛んだ。

 「え……? なんで」

 「部屋の片づけをしたら、いらないものがたくさんでてきたんですって。使えるものがあれば持っていってほしいって、お昼頃だったかな、電話かかってきたの」

 「ああ、そういう……」心底安心した。「なんかあったのかと思ったよ」

 「まさか」とお母さんは笑う。「今日もお父さんとくだらない喧嘩したみたいよ」

 「ケンカップルが結婚するとああなるんだろうね」とわたしは笑い返す。二人は若い頃からそんな調子だったと聞いたことがある。

 「で、土曜日、どう?」

 「いや、今回はいいかな」

 「あら、珍しい」

 「てらちゃんに誘われたの」

 「なんですって?」

 「卓球部の試合を見にいかないかって。断る理由もなかったから」

 お母さんは二度、大きく頷いた。「楽しんできな」と。

 「じゃあ、お母さんのところはわたしだけでいっちゃって大丈夫?」

 「うん、いいよ」と答えてから、ふと思い出して、「あっ」と声がでた。

 「せっかくいくんじゃさ、おじいちゃんから笹岡(ささおか)清之助(せいのすけ)シリーズの四作目、借りてきてよ」

 お母さんはよっこいしょと腰をあげ、「わかった」といった。ズボンのおしりをぽんぽんと叩く。

 「富岡製糸場の四作目ね」

 「違うな」

 ……そんな無茶なお願いしてないな、わたし。

 「そんな貴重なもの、おじいちゃん持ってないと思うよ」

 「日本初の製糸工場だからねえ」

 「その四作目はわたしが借りていいような代物じゃないのよ」

 「それじゃあ、はな、笹岡清之助が無価値みたいじゃないの」

 「そのいい方はよくないな」とわたしは苦笑する。「おかしいじゃん、そんなわけないじゃん。本の一冊がどんだけ手間暇かけて生みだされるものか」

 「そんな一冊がはなの手元にきていいの?」

 「もう何重にも失礼だよ、お母さん」

 そんなさ……娘の尊厳を侵さなくたっていいじゃない。

 そりゃさ、夕飯前に大盛りかつ丼食べちゃったけどさ。

 このわたしが、夜ごはん食べられないわけもないしさ。

 そんなに……さ、尊厳を侵さなくたっていいじゃない。

 「もうチャック閉めておいて、そのお口」

 本の、一冊や二冊さ、……読んだって、いいじゃない。