空になったどんぶりに手を合わせたあと、返却口に「ごちそうさまです」とお盆を返すと、「ありがとうございます」と千葉さんとは違う人の声がした。
見れば、店内はわたしがきたときより少しだけ人が多いように感じた。あのへらへらした千葉さんも、ほかのお客さんがいればちゃんと動くのだ。
お店を出てから、わたしは大通りに沿った歩道を家の方へ向かって歩いた。口の中に残ったかつ丼を食べた感覚は胸の中を幸せで満たす。
こうして穏やかな気持ちでいると、絵のことが頭に浮かぶ。
わたしはちょっと歩幅を広げた。
よし、決めた。
薫風堂にいこう。
『薫風堂』の看板の下、戸を引くと、「毎度ありがとうさん」とおいちゃんの声がした。
「またお願いしますね」と落ち着いた女の人の声がして、わたしの目が店内の薄暗さに慣れた頃、女の人がこちらに体の向きを変えた。そのまま歩いてくるので、わたしは戸のそばを離れた。
「気をつけて」というおいちゃんに「はーい」と軽やかに答えて、女の人は薫風堂をでていった。
それを見送って前を向き直ると、「やあ、嬢ちゃん」とおいちゃんがにやけた声を発した。
「さっきの女の人と全然、対応が違うのね」とおとなぶって拗ねてみる。
「嬢ちゃんはかわいいからな」とおいちゃんはいった。
わたしは苦笑した。「素人だからってばかにしてるんでしょ」
「客さんを選ぶようじゃあ、そいつは商売人に向いてねえさ」
「じゃあ、おいちゃんは向いてないんだ?」
「素直じゃないな」とおいちゃんが笑う。楽しそうでなにより。
「で、嬢ちゃん、なんの用でえ?」
「おいちゃんが誰にも見向きされないで寂しい思いしてないかなって心配になったんだよ」
おいちゃんは、けっけっけといった調子で、それはそれは愉快そうに笑った。
「そりゃあ杞憂だよ、嬢ちゃん。取り越し苦労だ」
わたしは「安心したよ」と笑い返した。
「じゃあ、ちょっと休ませてよ。いらない心配でカロリー使っちゃった」
「揚げもの食っても足りねえほどか」とおいちゃんは笑う。ぎくりとしたけれど、必死で平常心を装う。
「今日の嬢ちゃんはうまそうなにおいがする」
「やだ怖い。これでわたしを食べたら、おいちゃん、しばらくニュースを独り占めにできるよ。ここ半世紀くらいでもかなりショッキングな事件の犯人としてさ」
「ばかいうんじゃねえ、俺ぁテレビん中のちょっとした怪我も苦手なんだ」
ちょっとおいちゃんがかわいく思えて、たまらず笑ってしまう。
「さすがアーティスト、繊細なんだね?」
おいちゃんは鼻で笑った。「ばかにしてんのは嬢ちゃんの方だ」
今度はわたしが「素直じゃないな」と笑った。
「わたしはね、おいちゃんを尊敬してるんだよ。わたしよりずっと多く絵を描いてるし、いろんな経験をしてる。教われるものは多いと思ってるよ」
「経験なんてのは勝手にしていくもんだよ」とおいちゃんはいった。謙遜するような響きだった。
「自分の世界ってのは他人に教わるもんじゃない」
そうかな、といいかけてやめた。そうとも、とでも返ってきて終わりだと思った。
でも絵だって、教わることはあると思う。自分の考えを話すにも、そのための言葉を教わるように。
発してみる言葉がなくなって、わたしはくたびれたふうに体を傾けた。「ねえおいちゃん、お茶とかでないわけ?」
「でるかよ」といいながら、おいちゃんはカウンターの向こうで腰をあげた。「茶店じゃねえんだ」といいながら、奥に入っていく。
おいちゃんの持ってきてくれたグラスは茶色かった。覗き込むようにして香りを吸ってみると、それは甘く渋いことはなくて、まるで炒ったように香ばしかった。
「茶店っていうより、麦湯店だね」というと、おいちゃんはそんなものを知っているのかというように、器用に片眉を持ちあげた。
わたしは「いくつか時代小説を読んだことがあるの」と答えて、受けとったお茶を一口飲んだ。時代小説はお母さんの方のおじいちゃんが好きで、遊びにいったとき、何度か借りたことがある。
見れば、店内はわたしがきたときより少しだけ人が多いように感じた。あのへらへらした千葉さんも、ほかのお客さんがいればちゃんと動くのだ。
お店を出てから、わたしは大通りに沿った歩道を家の方へ向かって歩いた。口の中に残ったかつ丼を食べた感覚は胸の中を幸せで満たす。
こうして穏やかな気持ちでいると、絵のことが頭に浮かぶ。
わたしはちょっと歩幅を広げた。
よし、決めた。
薫風堂にいこう。
『薫風堂』の看板の下、戸を引くと、「毎度ありがとうさん」とおいちゃんの声がした。
「またお願いしますね」と落ち着いた女の人の声がして、わたしの目が店内の薄暗さに慣れた頃、女の人がこちらに体の向きを変えた。そのまま歩いてくるので、わたしは戸のそばを離れた。
「気をつけて」というおいちゃんに「はーい」と軽やかに答えて、女の人は薫風堂をでていった。
それを見送って前を向き直ると、「やあ、嬢ちゃん」とおいちゃんがにやけた声を発した。
「さっきの女の人と全然、対応が違うのね」とおとなぶって拗ねてみる。
「嬢ちゃんはかわいいからな」とおいちゃんはいった。
わたしは苦笑した。「素人だからってばかにしてるんでしょ」
「客さんを選ぶようじゃあ、そいつは商売人に向いてねえさ」
「じゃあ、おいちゃんは向いてないんだ?」
「素直じゃないな」とおいちゃんが笑う。楽しそうでなにより。
「で、嬢ちゃん、なんの用でえ?」
「おいちゃんが誰にも見向きされないで寂しい思いしてないかなって心配になったんだよ」
おいちゃんは、けっけっけといった調子で、それはそれは愉快そうに笑った。
「そりゃあ杞憂だよ、嬢ちゃん。取り越し苦労だ」
わたしは「安心したよ」と笑い返した。
「じゃあ、ちょっと休ませてよ。いらない心配でカロリー使っちゃった」
「揚げもの食っても足りねえほどか」とおいちゃんは笑う。ぎくりとしたけれど、必死で平常心を装う。
「今日の嬢ちゃんはうまそうなにおいがする」
「やだ怖い。これでわたしを食べたら、おいちゃん、しばらくニュースを独り占めにできるよ。ここ半世紀くらいでもかなりショッキングな事件の犯人としてさ」
「ばかいうんじゃねえ、俺ぁテレビん中のちょっとした怪我も苦手なんだ」
ちょっとおいちゃんがかわいく思えて、たまらず笑ってしまう。
「さすがアーティスト、繊細なんだね?」
おいちゃんは鼻で笑った。「ばかにしてんのは嬢ちゃんの方だ」
今度はわたしが「素直じゃないな」と笑った。
「わたしはね、おいちゃんを尊敬してるんだよ。わたしよりずっと多く絵を描いてるし、いろんな経験をしてる。教われるものは多いと思ってるよ」
「経験なんてのは勝手にしていくもんだよ」とおいちゃんはいった。謙遜するような響きだった。
「自分の世界ってのは他人に教わるもんじゃない」
そうかな、といいかけてやめた。そうとも、とでも返ってきて終わりだと思った。
でも絵だって、教わることはあると思う。自分の考えを話すにも、そのための言葉を教わるように。
発してみる言葉がなくなって、わたしはくたびれたふうに体を傾けた。「ねえおいちゃん、お茶とかでないわけ?」
「でるかよ」といいながら、おいちゃんはカウンターの向こうで腰をあげた。「茶店じゃねえんだ」といいながら、奥に入っていく。
おいちゃんの持ってきてくれたグラスは茶色かった。覗き込むようにして香りを吸ってみると、それは甘く渋いことはなくて、まるで炒ったように香ばしかった。
「茶店っていうより、麦湯店だね」というと、おいちゃんはそんなものを知っているのかというように、器用に片眉を持ちあげた。
わたしは「いくつか時代小説を読んだことがあるの」と答えて、受けとったお茶を一口飲んだ。時代小説はお母さんの方のおじいちゃんが好きで、遊びにいったとき、何度か借りたことがある。



