花水木

 公園からだと、十分ほどのところにかつ丼屋さんがある。

 わたしは荷物を持ったまま中に入り、そばの食券機でかつ丼の大盛りを選んだ。

 八百五十円。
 想定外の出費?
 知ったものか。

 九百円で食券を買って、じゃらじゃらとでてきた五枚の十円玉を財布にしまう。五十円玉は……なかったのだろう。

 カウンターで迎えてくれた店員さんがよく知った男の人だった。大学生で、空いた時間のほとんどをアルバイトに充てているという。タフな人だなと驚いた。

 「こんな時間にもくるんだね」といわれて、「千葉さんこそ」と笑い返す。

 「恋人のいない大学生は暇なのよ」と彼は笑う。

 「わたしが立候補したらどうします?」とふざけると、千葉さんは「大歓迎よ」といった。

 「はなちゃんみたいな子、タイプよ」

 「なにも知らないくせに」と笑い返すと、「そんなのは付き合ってからよ」という。

 「本当にタフですね。わたしは初めて付き合った人と添い遂げたいです」

 「そりゃお美しい」と千葉さんは茶化すようでもなくいった。

 こちらからは見えない台の上でさっと作業して、「ほい」と小さな機械を差しだしてくる。わたしはそれを受けとった。機械の下には紙がある。

 「気が向いたら連絡して」といわれ、慌てて確認すると、紙には『呼び出し番号 83』と書いてあるだけだった。裏にはなにも書いていない。

 「だはははは」と豪快な笑い声がして、途端に顔が熱くなる。

 「ちょっと、……え? びっくりした……」

 「はあー、うける。超かわいい」

 まだおかしそうにしている千葉さんを見て複雑な気分になる。今日はやたら笑われる。

 「まじめにやんないと苦情入りますよ」

 「はなちゃんから?」

 「代表しましょうか」

 「はあー……和んだ」

 千葉さんは「またやろ」と独り言のようにいって、仕事に戻った。

 わたしは恥ずかしくなって、カウンターや作業場からは見えない席に着いた。普段からこの辺りの席を使っていた自分に感謝する。

 それほど経たないうちに、手に持ったままの機械が振動して鳴りだした。重たい腰をあげてカウンターへ向かう。

 「お待たせいたしました」とお仕事用の笑顔をくっつけた千葉さんがカウンターにお盆を置いた。

 機械を手渡して音が止んだとき、「あのさ」と声がして見れば、まじめな顔をした千葉さんがいた。

 「はなちゃんって高校生だよね」

 「そうですけど……」

 「学校に、変わった名前の男子、いない?」

 途端、あのばか男の顔が浮かんだ。媚びるように物憂げな表情をしている。

 それに腹が立ったのはほんの一瞬のことだったようで、千葉さんは「スイゲツっていうんだけど」とつづけた。

 「スイゲツ? 苗字ですか、それ?」

 「いや」といって、千葉さんはちょっと迷うような顔をした。それから「下の名前」という。

 「そのまま、水と月って書いて水月(すいげつ)

 「いやあ……いないと思いますよ。男なのに葉月ってのはいますけど」

 千葉さんは「ああ……そっか、女の子のイメージが強いかもね」といった。「八月生まれなのかな」と。

 「まあ変わった名前なんて、俺も人のこといえたもんじゃないけど」という千葉さんに「なんていうんです?」と訊いてみるけれど、彼はいたずらっぽく笑うだけだった。

 ちょっと考えてみると、水月という名前はなんとなく訊いたことがあるような気がしてきた。

 千葉さんはわたしに高校生であることを確認したし、学校にそういう名前の人はいないかといったから、その水月という人も高校生なのだろう。

 「その水月って人がどうかしたんですか?」

 たまらず訊いてみると、千葉さんは「俺の弟の同級生なんだよね」といった。

 「ほう」と相槌を打ってつづきを待つ。

 「まあ……体調不良つってしばらく休んでて、弟が気にしてるからさ。もし同じ学校だったりしたら、なんか知ってるかなと思って」

 「そうなんだ……。すみません、お役に立てなくて」

 「ああいや、いいんだよ」と千葉さんは手を振った。「ごめんね、変なこと訊いて」

 それから彼は揃えた指でお盆を示し、「おいしく召しあがれ」とやわらかく微笑んだ。かつ丼を思い出したことで幸せな気分になって、わたしは「はい」と大きく頷いた。

 机にお盆を置き、席に着いて、クリップでまとめていた髪の毛を一度ほどき、もう一度まとめ直す。かつ丼を食べる前にはこうしなくては気が済まない。

 「よし……食うぞー……」

 箸を手に挟み、目を閉じる。

 いただきます——。