洗面台で手を洗っていると、「うわ、くっさ」とお父さんの声がした。聞こえなかったけれど、帰ってきたらしい。

 「やかましい」

 「まやかし?」

 「うるさいな」

 わたしは水を止めてエプロンを外した。

 「部屋はもっとくさいんだろ? よくいられるよ」

 「くさくないもん。好きなの、このにおいが」わたしは一音一音をはっきりと発音していった。

 「好きな人のおならなら、くさく感じないのと同じだよ」

 「え、そうなの?」

 「知らないよ、好きな人のおなら嗅いだことないし」

 好きな人に限らず、誰かのおならを嗅いだことがない。

 「好きな人くらい作っておけよなあ」

 「ああ、そういうことじゃないのよ」

 お父さんはわたしの離れた洗面台で手を洗い始めると、「今日、夕飯なんだって?」と鏡越しに目を合わせてきた。

 「ハンバーグだって。お父さんが帰ってきてから焼こうって、お母さんいってた」

 付け合わせはブロッコリーとパプリカのピクルスだともいっていた。わたしの好物。うちのピクルスは絶品なのだ。

小学生の頃、食べても食べてもおなかが空いて仕方なかったわたしに、せっかくなら体にいいものをと、お母さんがおかしのほかのおやつとして作ってくれたのがきっかけだった。

初めはきゅうりが多かったのだけれど、次第に種類が増えていき、とうとうおやつ用のものは、なんの、ということもなく、ただピクルスと呼ぶようになった。

あえて名前をつけるなら、ありたけ野菜のピクルス、にでもなるかもしれない。とにかくいろんな野菜が漬けられている。